広島 蔦屋書店が選ぶ本 VOL.46
【蔦屋書店・犬丸のオススメ 『一日江戸人』杉浦日向子・新潮社】
「なっとー、なっとなっとうー、なっと」
まだ時間も早いというのに騒がしい。「納豆、納豆」と大声で。数人の男女の声も入り混じって、一層、騒がしい。「毎朝、これがねえと」とか何とか。まったくうるさくて、寝ていられない。
うっすら目を開けると見慣れない低い天井と薄い壁。背中が痛い。
まてまて。ここはどこなのか。冷静に、冷静に。昨日は確かに家に帰って…。やけに薄い布団をめくると、浴衣?なんで?と、頭に手をやれば、髪の毛が無い!いや、ある。あるけど。あるのは横から後ろにかけて。そして、頭のてっぺんに、ちょこんと。これは…。まさかの、ちょんまげスタイル。いやいや、もう軽いパニックです。
ここは、天下泰平の江戸。どうしてかはともかく、あなたはこの江戸にタイムスリップしたようです。はい、あなたは今日から江戸っ子。文句はなしなし。こうなったら、とことん江戸暮らしを楽しもうじゃないですか。
そうですか。不安ですか。それなら、指南書をお渡ししましょう。
杉浦日向子さんの『一日江戸人』。これさえあれば、もう安心です。
あなたが、目を覚ました場所は、格安便利な裏長屋。間取りは四畳半に土間。井戸とトイレは共用です。さあさあ、ごろごろしていても、どうとなるものでもなし、出かけてみましょう。
まあ、何をするにもまずは銭を少し手に入れなければ。どうやって稼ぎましょうかね。
下町育ちの江戸っ子は、どうやら「この道一筋」とはいかないようで、定職も持たず、ぶらぶらとその日暮らしをしていたようです。
「宵越しの銭は持たねえ」なんて聞いたこともあるでしょう。まあ、「持たない」のではなくて「持てなかった」もあるでしょうし、そもそも、出世欲も無いようで貯金なんてのも考えなかったのでしょうけど。
ささ、指南書をめくりましょう。
職業も選びたい放題。あなたの、アイデアと行動力で稼ぎましょう。
「米つこうか、薪割ろうか、風呂焚こうか」と言いながら歩けば、どこかの家からお呼びがかかるようです。声を出すのは恥ずかしい?では、坂の下に立って重そうな荷車を待ちましょう。ほらほら、来ました。押すのを手伝って、バイト料をもらいましょう。転職も簡単なようですねえ。物売りのなかでやってみたいものがあれば、その人に声を掛けましょう。親方の所へ連れて行ってもらえるようですよ。
え?いきなり大道芸がやってみたいなんて!案外、目立ちたがり屋なんですね。どうやら、あの北斎も食えない時は巨大な唐辛子の張子を背負って歩いたって書いてありますし。やってみますか…。江戸っ子を笑わせたら銭も弾んでくれるでしょう。
適当に銭を稼いだら、仕事はおしまい。家?家には帰りません。あそこは寝るためだけにあるのです。それより、銭湯に行きましょう。江戸っ子は大の風呂好き。一日に何度でも風呂に入ったようです。銭湯の二階には座敷があります。のんびりするもよし、囲碁や将棋をするもよし、気ままに過ごしましょう。
おっと、お腹がすいた?それなら、屋台がおすすめです。えーと、寿司、天ぷら、そばにうどん。ここに載ってる粟餅なんてのもおいしそうです。好きなものを好きな時に食べればいいのです。
江戸っ子にとって町そのものが我が家。町全体で生活するのです。家は賃貸、暮らしていけるくらい稼げば、あとは気ままに過ごす。本が読みたくなればお寺の本堂でごろりとしながら読んで、風呂は銭湯。物を持たず、必要な時はレンタル。買ったとしても、修理しながら一生使い続ける。捨てない。蝋燭のとけた蝋や、かまどの灰、女性の抜けた髪の毛まで買いに来てくれます。リサイクルできるものは、とことんします。
とかく江戸時代といえば武家社会が横行し、幕政の下、庶民は抑圧された生活をしていたかと思いきや、徳川のお膝元のこの江戸で体制からはみ出したような江戸っ子が「持たず、悩まず、出世せず」で、なんとも楽しそうに暮らしているのです。
著者の杉浦日向子さん。2005年、46歳でお亡くなりになりました。とても残念です。杉浦さんが某番組で江戸の歴史や風習についての解説をなさっていた姿を忘れることは出来ません。着物姿がとても美しかった杉浦さんは、それはそれは楽しそうにお話をされていました。特に江戸庶民の暮らしに精通されていて、初物好きな江戸っ子の話から、傘を差している時の狭い道でのすれ違い方まで、まるで今見てきたかのようでした。
番組を降板されるとき「念願だった豪華客船で世界一周の旅をする」とコメントされました。でも、本当は病気の治療のためであったのだと、杉浦さんの死後発表されたのです。
闘病生活に入る前の粋な台詞。杉浦さん自身、まさに江戸っ子です。
おっと、そろそろお時間のようです。わたしは現代に帰りますが、あなたは、どうしますか?もう少し…って。あなた、まさかこのまま江戸に住むつもりですか。ああ、ちょっと…。指南書をめくりながら行ってしましました。
江戸っ子になりたいなら、まず、指南書を手に入れましょう。好きなところから、パラパラめくりながら目を閉じます。目をゆっくり開けば、そこは、格安便利な裏長屋!かもしれません。
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