広島 蔦屋書店が選ぶ本 VOL.43

【蔦屋書店・犬丸のオススメ 『はじめての沖縄』岸政彦・新曜社】

 

『はじめての沖縄』。タイトルから想像するような観光本でも解説本でもない。「沖縄について考えることについて考える」、ある意味で「めんどくさい」本だ。

わたしも、かなりめんどくさい思考の人間だ。ひとつのことを考え出すと、頭の中で堂々巡りになり、なかなか断ち切れない。

だが、この本を読んで、なんというかストンと得心した。様々な場面で現れる、わたしと他者の差異を「境界線」と呼ぶのなら、それを飛び越えなくてもよいということを。いや、むしろ境界線はやすやすと飛び越えようとしてはいけないのだ。

 

著者の岸政彦さんは、二十年以上、沖縄の研究をしている社会学者だ。特に戦後の沖縄の社会構造とアイデンティティの変化について調査していると書かれていた。

社会学の調査方法ひとつに、生活史調査がある。生活史とはなんだろうか。

岸さんのインタビューによると、個人の生い立ちや人生の語りを聞いて社会について考える調査法、あるいはそこで聞かれた語りそのものを指すと、あった。

沖縄の人から「語り」を聞く。本書でも、様々な年齢、職業の人が、自分の記憶をたどり語っている。その人の口調そのままで書かれていて、ひとつひとつ違い、この場に生身の肉体の存在を感じる。この人もこの人も沖縄に存在し生きていると。この言葉に他者の思想など意味を持たない。ひとりひとり生きている人の中に沖縄のすべてがあり、それを語りとして聞く。

 

この「語り」を「聞く」ということ。これはとても難しいことではないだろうか。人の記憶とはあいまいなものだし、人の心もとても難しい。あることをこうだと考える一方で、頭の片隅では、全く正反対のことを考えていたりする。聞き手の相槌や質問の仕方で、聞き手が聞き出したい答えのような言葉を引き出すことも可能なのではないのだろうか。

岸さんは、どのように「聞く」ことをしているのか。

岸さんの著書『断片的なものの社会学』の中でこんな文章があった。

 

インタビューの最初の質問は、海に潜るときの、最初のひと息に似ている。(中略)私は語りに導かれて、深い海の底まで沈んでいく。息を止めて潜っても潜っても底が真っ暗で見えない。

そして、聞き取りが終わると、ゆっくりと水面に浮かび上がっていく。水面から顔を出して、大きく息を吸い込んで気がつくと、たったひとりで夜の海で浮かんでいる。こうして、私は「この私」に戻ってくる。

そして、そのとき、とてもさみしい気分になる。

 

語りを聞くことは、ただただ、その人の語りの中に沈み込み、どこへ行きつくかもわからない語りとともに、その人の人生を体現する行為なのかもしれない。そこにあるのは、その人の人生、生活史のみなので、聞き手の自己などない。自己を失くすことによって、語りに自分のロマンチックな想いやノスタルジックな感傷を重ねることもなくなり、語りのみがそこに現れる。そして、語りが終わるとその人の人生からも引きはがされ、感じる孤独。

こんな気持ちで聞かれているとは考えもしなかった。岸さんだからこそ、聞ける語りがある。

 

「聞く」。そして、その次の段階として「語らなければならない。私たちは、沖縄について語る必要がある。」と岸さんは書いている。

語るときに、自覚しなければならないのが差異、境界線だ。

わたしと他者には、差異がある。横たわる境界線だ。自分の位置や角度を変えるたび、現れる様々な種類の境界線だ。ある時、わたしはマイノリティだが、ある時はマジョリティ側に立つ。

沖縄を考えるとき、わたしはマジョリティだ。そこには境界線がある。沖縄を知りたいと考えたとき、わたしはその境界線を無くそうとしていた。無くすことが理解することだと。だが、どうやっても、わたしは沖縄の人にはなれない。なれないものになろうとするから苦しいのだ。それは違うのだ。その境界線を自覚するのだ。

「私たちと沖縄を隔てる境界線の真上で、境界線とともに、その境界線について、語る必要があるのだ。」

そうだ、そうなのだ。書いてあるとおりなのだ。境界線があるからこそ、境界線まで赴き、境界線を自覚し、語らなければいけないのだ。

 

これからも、わたしはあらゆる境界線を引きずりながら、それを自覚し、それについて思考するのだろう。『はじめての沖縄』を読む前より、少し整理された心とともに。

 

 

 

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