広島 蔦屋書店が選ぶ本 VOL.41
【蔦屋書店・江藤のオススメ 『ある男』 平野啓一郎】
本を読むのが好きだ。
と言っても、本にもいろいろある。
例えば、趣味の本。釣りが好きだった頃は釣りの本を好んで集めて読んでいた。ノンフィクションもおもしろい、事件物や冒険物、過去の人物を書いた人物伝なども非常に興味深い。
中でも特に好きなのは小説、そう物語です。
物語を読むのがもっとも楽しい。おそらく一生好きだと思う。
本という形ができる前、口伝で広められていた昔話の時代から物語はあった。
遙か昔から今に至るまで、人が物語を求めるのはなぜなのだろう。
その答えのしっぽをつかんだ気がする。
この「ある男」という物語を読んで。
平野啓一郎はただの小説家ではないと思っている。
彼が創る小説には、その物語の面白さだけではないものがある。
小説を読んで、その小説世界を味わい尽くして、ああ面白かった、と満足して終わりではない。読み終わった後に、その小説世界からはみ出したところにある「なにか」を感じてしまい、そこからしばらくは、その「なにか」にとらわれて、そのことをひたすら考えこんでしまう。そんな小説を創る作家だ。
今回は、ひとりの弁護士が「ある男」について調べることになる物語だ。
その男は、かつての依頼者である女性の再婚相手だった。だが、ある日突然に事故で亡くなってしまう。大きな悲しみの中で死後の手続きをしているときに、その男が名乗っていた名前も、語っていた過去も、全てが全くの別人のものであったということがわかる。「ある男」はだれなのか。その弁護士が男の素性を追っていくうちにさまざま事実が浮かび上がってくる。過去を変えて生きる男、なぜなのか、どうやって。その謎を解き明かしていく過程はとてもスリリングでミステリー的な面白さも保証できる。
現在の私を作っているのは、過去の私だと思う。
それは今まではっきり自覚したことはないが、おそらくそうなのだろう。
では、私の過去がまったく違うものだったら私は今の私ではないのだろうか。
ということは、過去を変えることで私は私ではない別の人生を送ることができるのか。
この小説の中では、過去を変え、別の人生を生きる男たちの存在が明らかになっていく。本来の自分を捨て、別の人生を生きるとはどういうことなのか。
別の人生を生きるということは、別の過去を背負うということであり、別の過去はその男にとっては「ある物語」である。その「ある物語」を自分の物として生きるということになる。
おそらく誰しも今の自分ではない、別の人生を生きてみたいと思ったことはあると思う。しかし、そんなことを想像することと、実際にそこに踏み出すことには、簡単には超えられない巨大な深い溝がある。
もしかすると、その溝を空想の中でだけ埋めるものとして、物語がこの世に存在するのかもしれない。遙か昔から人々が物語を求めていたのはこういうことなのかもしれない。
それこそが文学の存在意義なのではないだろうか。
平野啓一郎の小説はまぎれもない文学である。
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