広島 蔦屋書店が選ぶ本 VOL.261『僕の樹には誰もいない』松村雄策/河出書房新社
蔦屋書店・丑番のオススメ『僕の樹には誰もいない』松村雄策/河出書房新社
文筆家の松村雄策さんが今年の3月にお亡くなりになりました。『僕の樹には誰もいない』は、死後にまとめられた松村さんのエッセイ集です。
松村さんは、『ロッキング・オン』というロック雑誌で、1972年の創刊時から編集に携わり、50年にわたってその雑誌に書き続けてきました。松村さんは1964年の中学1年生のときに、ビートルズに出会い、中学高校のもっとも多感な時期にビートルズを聞き、影響を受け、そしてそれを生涯貫いたひとだといえます。子どものころの好きをずっと貫くことというのは思いのほか、難しいことだと思うのです。
1966年のビートルズの武道館コンサート。熱狂する少女たち、手に入りにくかったチケット。ビートルズは60年代の日本で熱狂的な人気があったかのように思えます。実はそれは間違いで、グループサウンズのほうが、圧倒的に人気があり、ビートルズを聴くのはクラスでも2,3人だったと言います。ビートルズは1970年に解散しますが、70年代にビートルズは「先進的な」ロック好きからは、遅れたものと考えられていたとも言います。
現在からすると、ビートルズは評価が定まった存在ですが、時代の空気は、圧倒的な存在でさえ、その価値を正しく捉えられなくするのかもしれません。なぜ、松村さんはビートルズをずっと好きでいられたのでしょうか。それは、音楽が、ファッションがかっこいいからというのは当然のこととして、それ以上に思考に、価値判断に、生き方にビートルズが影響を与えたからです。
松村さんの唯一の小説『苺畑の午前五時』(小学館文庫)。これは1963年から70年の東京っ子の青春が描かれた自伝的な小説です。主人公・亮二の年齢と松村さんの年齢はちょうど一致します。その中の1969年のエピソードで、主人公は教師主導のお仕着せの文化祭ではなく、生徒主導の文化祭を企画します。結果的に、教師に目をつけられ、退学させられることになります。でもやるんだよ、という主人公の決意が述べられている箇所を引用します。
「あと半年で、卒業なのだ。おとなしく時間を過ごせばそれですむのである。しかし、もしなにかがあるというのなら、そういうわけにもいかないということが、亮二にはわかっていた。
亮二はビートルズを聴いていたのだ。真剣にジョン・レノンを、五年間聴き続けていたのである。なにかがあるというのなら、このまま黙ったままで卒業するわけにはいかなかった。」
(『苺畑の午前五時』より引用)
亮二はビートルズを聴いていたのだ。真剣にジョン・レノンを、五年間聴き続けていたのである。なにかがあるというのなら、このまま黙ったままで卒業するわけにはいかなかった。」
(『苺畑の午前五時』より引用)
松村さんのロック音楽の評論は、ロックのことだけを書くのではなく、自分のことも必ず書いていました。それは安易な自分語りでは決してありません。松村さんは10年にわたりプロとして、音楽活動もしていたので、音楽の技法や表現について書くことで原稿を仕上げることもできたはずです。しかし、ロックというものは、ひとの生き方に影響を与えるもので、それに影響を受けた自分のことを書かなくては、評論にならないと思っていたのだと思います。
わたしが一番好きな松村さんの本は『それがどうした風が吹く』(二見書房・絶版)です。これは、ロック以外について書かれた文章を集めた雑文集です。名文章家によって書かれた雑文集ほど味わいのあるものはありません。本・酒・プロレスについて書かれた文章が集められています。ロックについて書かれた文章に比べて軽く、良い文章を読みたいな、と思ったときに何げなく開いた箇所の一節を読んだりします。
松村さんは小説家では、内田百閒と山口瞳が好きで、山口瞳について書かれた一節には、松村さんの文章の秘密があるような気もします。
松村さんは小説家では、内田百閒と山口瞳が好きで、山口瞳について書かれた一節には、松村さんの文章の秘密があるような気もします。
「山口瞳の基本的な視点は、普通の人が普通に生きるということだった。特別の才能があるわけでもない普通の人間が、良いときもあれば悪いときもある中を生きて行くということを重く考えていたのである。天才には天才の人生があるのだろうけれど、普通の人間にも普通の人間の濃密な人生があるのである。」
(『それがどうした風が吹く』より引用)
(『それがどうした風が吹く』より引用)
『僕の樹には誰もいない』は『それがどうした風が吹く』と同じく米田郷之さんが編集しています。米田さんによると、生前の松村さんから10冊目の本を作ってほしいという依頼があり、松村さんが丁寧に保管されていた雑誌などから、抜粋して出版されたということです。当初は倍ほどの分量で、松村さんも亡くなった後で、どうまとめるかを悩んでいたそうですが、ご遺族からの新しいものをまとめたら、というアドバイスに従って編集したということです。松村さんの絶筆も収録されており、死についても触れられていますが、いつもの松村さんの楽しい文章になっているのが、ほんとうにすごいと思います。
評論家の坪内祐三さんは松村雄策さんを「日本最良のエッセイスト」と呼びました。ぜひ、その素晴らしい文章に触れてもらいたいです。そして、11冊目の本が出ることを楽しみに待ちたいと思います。
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