広島 蔦屋書店が選ぶ本 VOL.304『こやたちのひとりごと』谷川俊太郎、中里和人 写真/アリス館
蔦屋書店・佐藤のオススメ『こやたちのひとりごと』谷川俊太郎、中里和人 写真/アリス館
谷川俊太郎さんの『こやたちのひとりごと』という写真絵本が、このほど改訂され新たに出版されたということで、読んでみました。とても素敵な本でしたので、ご紹介したいと思います。
谷川俊太郎さんの写真絵本といえば、まず、福音館書店の『こっぷ』や『よるのようちえん』などの名作が頭に浮かびます。谷川さんは文を書く側の人ですが、“写真絵本の可能性を切り開いてきた”とされる方でもあります。
本作品の谷川さんのパートナーである中里和人さんは、日本各地の風景を独自のアプローチで撮影されている写真家です。『こやたちのひとりごと』に掲載する作品を含む中里さんの写真集『小屋の肖像』(メディアファクトリー)には、北海道から沖縄まで、さまざまな場所を巡って撮り集めた、各地の小屋の写真が収録されています。
晴れわたった青空のもと、広い田んぼの一角にポツンと建っている、かなり年季の入った掘ったて小屋や、ほとんど人が通りそうもない山道の脇に、忘れられたように草木に覆われて建つ物置小屋、または住宅地の狭い空き地にひっそりと建てられた小さな倉庫など、おそらくありあわせの廃材で造られた、言ってみればボロボロの、そのまま古びて朽ち果ててしまいそうな、しかしそれでいてどこかかわいらしい風情を持つ小屋たちが、周りを取り巻く自然や町並みとともに収められた中里さんの写真は、一枚一枚思わず見入ってしまうような、瑞々しい魅力を湛えています。
それは世の中の片隅にあって、誰の目も引きそうにない存在に目を向けた作品です。いくつかの小屋の写真には、久しく忘れていた記憶の断片に、再会したような懐かしさを覚えます。それまで気に留めることもなかった見慣れた景色が作品とオーバーラップするようで、そのつつましやかな佇まいの美しさに、改めて目を見張る思いです。
山裾に広がる小さな町が見渡せる高台や、また漁師町の海岸沿いなど、さまざまな場所で撮られた『こやたちのひとりごと』に掲載される大小合わせて52点の写真には、はじめから終わりまで、全く人の姿はありません。一か所向こうの畑に人影がと思ったものは、よく見ると案山子でした。
そして、谷川さんがこれらの中里さんの写真に合わせるのは、それぞれの小屋たちが呟くひとりごととして、耳の奥に直接響いてくる気がするような言葉です。
「むかしから ずうっと ここにたってる どこかにいきたいと おもったことはない」
「まいあさ そらに おはようっていう そらは へんじしないけど かまわない」
「きには ねっこがある えだや はっぱがある わたしには とびらと まどがある どっちもすてきだ」
読んでいて、まず感じるのが、その小屋の写真と文章との呼吸が実にぴたりと合っていることの、楽しさであり面白さでしょう。そうした谷川さんの言葉のひとつひとつに連れられて、写真の映す世界の真ん中に自然と引き込まれるような気がします。
中里さんは、写真集『小屋の肖像』について、その書名の意味するところを「…おじさん達のセルフビルド(自作)による小屋は、小屋を建てた人たちの肖像そのものに見え、タイトルは『小屋の肖像』にした」と述べておられます。
そのように中里さんがご自身の撮影した小屋を、建てた人のあり方を投影するものとして捉えた一方で、その写真に谷川さんが文をつけた本書のタイトルは、『こやたちのひとりごと』。つまり谷川さんはこれらの小屋を、人を介した存在として捉えるというよりも、小屋そのものに目を遣り、その声に耳を傾けるというスタイルをとっています。こうしたお二人の視点の違いは、私にはとても興味深いものに思えます。
きっと谷川さんは、中里さんの小屋の写真を見たときに、何かが聞こえてくるように感じられたのではないでしょうか。この本が行うのは、小屋の擬人化ということかもしれないし、また少し別の言い方をすれば、その存在が表しているものを谷川さんが感じ取り、言葉に置き換えたということでないかと思います。
そのように中里さんがご自身の撮影した小屋を、建てた人のあり方を投影するものとして捉えた一方で、その写真に谷川さんが文をつけた本書のタイトルは、『こやたちのひとりごと』。つまり谷川さんはこれらの小屋を、人を介した存在として捉えるというよりも、小屋そのものに目を遣り、その声に耳を傾けるというスタイルをとっています。こうしたお二人の視点の違いは、私にはとても興味深いものに思えます。
きっと谷川さんは、中里さんの小屋の写真を見たときに、何かが聞こえてくるように感じられたのではないでしょうか。この本が行うのは、小屋の擬人化ということかもしれないし、また少し別の言い方をすれば、その存在が表しているものを谷川さんが感じ取り、言葉に置き換えたということでないかと思います。
少し話が跳ぶようですが、対談集『絵本のことを話そうか』(松田素子/編 アノニマ・スタジオ)に掲載される、長新太さんと五味太郎さんの対話の中で、特に印象深かったのが、お二人が「とりあえず人間じゃなくてもいいと思っている」「机にしても椅子にしてもすべて生命がある、別に人間だけが生きてるんじゃないという感覚が非常につよい」「たとえば魚とか虫から愛読者カードがきたら最高」といった立場で、お互い通じ合っておられたことでした。
それがどんな感覚を指しているのか、私にはよく分からないながらも、どうやら作品を生み出すうえでの根幹にかかわることでもありそうで、とても考えさせられるお話だったのですが、お二人にしても、そして谷川さんにしても、人でないものから何かを感じ取る、アンテナのようなものをお持ちなのかもしれません。
読書はしばしばそのように、自分の理解の及ばぬものに出会い、世界の厚みに想いを馳せる機会を私に与えてくれます。
読書はしばしばそのように、自分の理解の及ばぬものに出会い、世界の厚みに想いを馳せる機会を私に与えてくれます。
そしてまた、再び写真に目を移してみてふと思うのが、こうした小屋たちは、いつ取り壊され無くなってしまっても、おかしくないものであるということです。
気付けばかつて私たちの日常にあったさまざまなものが、世の中から静かに消えていくなか、このように記録され形に残るというのは、たぶんそんなことはそれまで思ってもみなかった小屋たちにとっても、きっと、嬉しいことであるでしょう。