広島 蔦屋書店が選ぶ本 VOL.101
蔦屋書店・丑番のオススメ『プリンセスメゾン』池辺葵/小学館
わたしたちは何かを決断して生きている。今日のお昼ごはんといった些事から、進学や就職、結婚や出産という大事まで。もちろん決めたからといって叶うことのないことや、否応なしに流されてしまうもあるのだけど。
選ばなかった道の向こうにはどんな光景が広がっていたのか、と考えることもある。
なぜ物語を読むのかということについても、決断するということが関わっていると思うのだ。物語には、選ばなかった人生を生き直すという役割もあると思う。
起こり得たかもしれないこと、想像もしなかったこと。それは法律に反するようなことの場合もある。たとえば『罪と罰』の青年ラスコリーニコフが老婆を殺すにいたった独善的な決断。でもその決断は起こり得たかもしれないわたしの人生である。そう信じさせてしまう物語の、作家の力。
決断する瞬間を描く優れた作家が映画監督・成瀬巳喜男だ。代表作のひとつである林芙美子原作の『めし』(1951年)。平凡なサラリーマンの家庭で、家事に追われる毎日を過ごす主婦が実家に戻り、自立を目指すが、諦めて家に帰るというあらすじの映画だ。映画のラストに女性はかくあるべしといったナレーションが入り、いまのジェンダー観からすると許せないということにもなるのだが、「人が人を許す決断」をする瞬間を描いた映画として素晴らしい作品である。その瞬間に至るまでが丁寧な演出で表現されている。わたしたちの人生でも誰かを許すということはあるだろう。それがなぜスクリーンの上に映し出されるときに、こんなにも心が揺さぶられるのだろうか。
今回紹介する『プリンセスメゾン』は、26歳の独身女性・主人公の沼越さんが「この家を買う」ことを決断するマンガだ。家を買う。お昼ごはんの選択とはわけが違う。失敗できない。妥協できるところと妥協できないところのせめぎあい。内見やモデルルーム見学を重ね、自分にあった家を確たるものにしていく。とはいえ、好みだけで家を買うことはできない。当然いるのは先立つもの。お金だ。沼越さんは節約している。服装はいつもパーカーにデニム。いま住んでいるアパートは1F。隣家に接しており日当たりは最悪。でも家の中は必要最小限なもので整理されていて、丁寧に暮らしていることが伝わる。
沼越さんは目標に向かって一生懸命だ。家を買うなんて無理ですよ、という後輩に対して、いうこんな一言。「努力すればできるかもしれないこと、できないって想像だけで決めつけて、やってみもせずに勝手に卑屈になっちゃだめだよ。」
沼越さんかっこいい。
もうひとつの主人公が東京の街だ。自宅アパートの周辺の橋を沼越さんは歩く。背景にはスカイツリーと工事中のビル群が描かれている。そのシーンが繰り返される。一人で。または誰かと。昼のこともあれば夜のことも。美しく解放感のあるシーン。
家を買うということは街に住むということだ。沼越さんはモデルルーム見学と平行して、東京の街を歩く。そこで描かれる街のそれぞれ。
沼越さんが家を買うことをまさに決断したとき、そのとき東京の街はどのように描かれているだろうか。ぜひ読んで確かめてほしい。
読み終えたあとも作中の人物たちが、生き続ける作品がある。あの登場人物たちはその後どうしているのかな、と考えてしまうような作品。『プリンセスメゾン』もそんな作品のひとつになった。もう6巻で完結しているというのに。沼越さんがどんなふうに歳を重ねていくのだろう、そんなことを、ふとした瞬間に考えてしまう。それはとても幸福な物語との出会いだと思う。