【第51回】コンシェルジュ河出の世界文学よこんにちは『逃げ道』ナオミ・イシグロ/早川書房
孤独な人たちの物語 『逃げ道』
孤独、という言葉が、たぶんこの本には似合う。
たとえば「ハートの問題」のダニエル。婚約者ベアトリスと一緒にロンドンで暮らしている彼は、この大都市になじむことができない。故郷アイルランドに帰ることを夢想して中身の詰まったスーツケースを常に部屋に用意し、仕事を探していることになっている日中彼はあてもなく、この大きすぎる都市をさまよっている。一緒に暮らす婚約者がいるにも関わらず、どうしようもない孤独に包まれながら。思い切ってアイルランドに帰ることだって、ダニエルにはできるはずだ。しかし、変化に必要なエネルギー、「思い切る」だけの力が、ダニエルにはないように思える。そしてこの「エネルギーのなさ」の源は彼を包む孤独にあり、その孤独の源はどこかと言えばロンドンという大都市にあり、けれどロンドンを離れるだけのエネルギーはなく、という堂々巡りの中に彼はとらわれてしまっているようだ。
たとえば「加速せよ!」のエフゲニー。コーヒーを飲むことで脳内世界を加速させることができると気づいた彼は、効率化を極め、たくさんの仕事をこなし、ついには自分が同時に複数存在すると感じるまでになる。周囲よりゆっくりものを考えてしゃべるアナリスと恋に落ちたエフゲニーだが、あまりにも異なるスピードで生きるふたりの関係には、やがて齟齬が生じていく。エフゲニーの感じる孤独は、彼の目からすればあまりにも「無駄」の多すぎるアナリスに対する不満や、自分の特異な世界を理解してもらえないところから来ているように思える。彼にはコーヒーを飲むことをやめ、加速する世界を手放す道もあったのではないか。しかし彼は更なる加速を求める自分を止めることができない。かくしてふたりの距離は広まっていく。
他にも、いろいろな孤独がこの本には描かれている。鳥だけを友とする女性の孤独。森の一軒家に一匹の犬だけを連れて暮らす若き王の孤独。魅力的な女性と知り合えたのにうまく接することのできない占い師の孤独。
誰かと一緒であることが、孤独でないことを意味するわけではない。むしろ、他者と共にいながらも感じる孤独こそが、真に深い孤独なのかもしれない。特にダニエルとエフゲニーの物語からはそれを感じる。このふたりにはパートナーがいて、どうにかすることができたかもしれなかった。けれどどうにかすることができなかった。出口に続く道を見失い、あるいは探そうともしなかった。
この短編集が「逃げ道」と名付けられたことの意味を考える。ここに描かれているような孤独から逃れる道はどこにあるのだろうか。どこにもないのかもしれないそれを、本の内側でも外側でも、多くの人が探している。