【第42回】コンシェルジュ河出の世界文学よこんにちは『その昔、N市では』マリー・ルイーゼ・カシュニッツ/東京創元社
カシュニッツという作家 『その昔、N市では』
いっそのこと、手のひらにおさまるほどの大きさの虫であればいい。そんな虫が床を這っていれば、叩き潰すこともできるだろう。しかし、そういう虫ではない。皮膚の下にいつのまにやらもぐり込み、その細く矢鱈に数の多い足で蠢いている、得体の知れない、何匹もの、小さな虫。狙いを定めて一撃を加えることのできない、だから余計にしまつの悪いもの。カシュニッツの短編が読者に与えるのは、たぶんそういう類の感情だ。
たとえば「精霊トゥンシュ」において、一体何が起こったのか詳らかにすることを、カシュニッツはしない。なぜ/いかにして/何が起こり、このような結果になったのか、をきれいに解き明かせば、あるいはこの物語はミステリーと呼ばれるに至ったかもしれない。しかしこの物語はミステリーではない。あるいは、カシュニッツはミステリー作家ではない。
たとえば「いいですよ、わたしの天使」において、語り手は自分の部屋の間借り人の娘に愛情を抱き、その願いを叶えようと努めたがためにどんどん生活を侵食されていく。これは文句なく恐ろしい短編である。それにもかかわらず、この物語をホラーと分類するのはためらってしまう。カシュニッツが人を怖がらせようとしてこの物語を書いたとは、少なくとも私には思われない。
カシュニッツが書いているのは、では何なのか。幻想小説、と呼ぶ人はいるかもしれない。奇妙な味、という言葉も思い浮かぶ。しかし恐らくは、こうやってレッテルを貼り、分類しようとすること自体に馴染まない、カシュニッツはそういう作家である。「船の話」で妹が乗る予定ではなかった船に乗ってしまうように、まちがった乗り物に乗り、そのまま乗り続けているほかはない。そんな気持ちで文章を追い、思いもしなかった場所まで連れて行かれる。カシュニッツを読む時、そういうふうに読むことがたぶん正しい。