【第38回】コンシェルジュ河出の世界文学よこんにちは『彼女の思い出/逆さまの森』J・D・サリンジャー/新潮社
サリンジャーが特別な作家である理由『彼女の思い出/逆さまの森』
ただその姓を聞くだけで、誰のことだかたちどころにわかり、作品名を挙げることができて、なんなら文章の癖まで浮かんでくる――そんな作家がいる。
実際に何人か挙げてみればわかりやすいだろうか。たとえば芥川。太宰。三島。世界に目を向ければ? カポーティ、サガン、ボルヘス、なんてどうだろう。そしてもちろん、サリンジャーだ。「キャッチャー・イン・ザ・ライ」や「ナイン・ストーリーズ」は一体、どれだけの人にとって大事な一冊となっているだろう。発表した作品の数は決して多くはないものの、サリンジャーは読者にとって、そして文学にとって、特別な存在であり続けている。それはなぜなのか。
とてもシンプルにその理由を説明するならば、他の誰にも書けない文章を書いたからだ。いくつか引用すればそれをわかってもらえるだろうか。
そしてふと彼女をみると、その美しさはこの部屋には納まりきらないように思えた。(p.19)
結婚するなら、道路で死んだネズミが転がってるのをみると、なぐりかかってくるような女をさがすんだぞ。(p.54)
実際、リダ・ルイーズの声は説明できなくはない。力強く、やさしい声だ。歌う時の一音一音が強烈な響きを持っていて、きく者をそっと、ばらばらにする。(p.140)
本書に収められているのは『キャッチャー・イン・ザ・ライ』『ナイン・ストーリーズ』以前のサリンジャーが書いたものだ。アメリカでは未だに単行本の形にはされていない。これらの読まれないのはあまりにももったいない九つの中短編を日本語で読むことができるのは、特別な作家としてサリンジャーを愛する人にとって、幸いなことである。この時代から、サリンジャーはサリンジャーであり、彼にしか書けない文章を書いていた。この贈り物のような一冊で、その文章を味わってほしい。