【第25回】コンシェルジュ河出の世界文学よこんにちは『円 劉慈欣短篇集』劉慈欣/早川書房
巨大な脅威を前にして、私たちにできること『円 劉慈欣短篇集』
劉慈欣という作家がいる――と言ったら、今なら「知ってるよ」と言われる可能性は高い。たとえその名前でぴんとこなくても、「『三体』を書いた作家だよ」と言ったなら、「ああ、わかる」と言う人は多いだろう。間違いなく二十一世紀を代表する傑作としてSF史に名を残すことになるであろう「三体」三部作は世界中で大ヒットを記録し、現在複数の映像化が進行中である。本書はその劉慈欣の日本初の短編集だ。
『三体』で劉慈欣が描いたのは、あまりにも巨大な脅威と、それを前にあがくあまりにもちっぽけな人間の姿だった、と言えると思う。私たちが知っている「今、ここ」とは比べものにならないほど進化した文明はいかなるものか。そうした文明と接触せざるを得なくなったら、戦わざるを得なくなったら、私たちには何ができるのか。
この短編集に収められた中で、そのテーマをもっともよく表しているのが、「郷村教師」であろう。中国の貧しい山村で、大人たちの冷たい視線を浴びながら必死で子どもたちに教育を行う貧しい教師の物語が語られていると思ったら、その物語に突如、全然関係のないように思われる、正にSF、という物語が挿入される。けれどその「正にSF」の物語を読み進めていくと、読者には、作者劉慈欣がどういう物語を書きたいのか、この物語がどういう結末を迎えるのか、おおよそのところがわかるだろう。その意味でこの物語に驚きはない。けれど、感動はある。劉慈欣は子どもたちに教育を、というある教師のひたむきな努力を、このような実を結ぶものとして描いた。
人々のあがきは、けれども劉慈欣世界において、必ずしも「郷村教師」と同様に実を結ぶとは限らない。しかし、人々はそれでもあがく。巨大な脅威を前にして、あまりにもちっぽけな私たちに何ができるのか――その問いに対する劉慈欣の答えは、「私たちにはできることができる」なのだ、と言うことができるかもしれない。逆に言えば、私たちには自分にできることしかできない。だからそれをやるほかない。私たちが前にした脅威があまりにも巨大な時、それは悪あがきと呼ばれる類の小さな抵抗かもしれない。けれど、その悪あがきが自分や、他の人々や、世界を救うことが、もしかしたらあるかもしれない。そういう意味で、ちっぽけな私たちが精いっぱいあがくこと、それ自体が希望なのだと、ここに収められた物語はそう言っているように思える。