【第22回】コンシェルジュ河出の世界文学よこんにちは『テムズ川の娘』ダイアン・セッターフィールド/小学館
物語は生をあやなす『テムズ川の娘』
あやなす、という言葉がある。辞書を引くと、まず出てくるのがこんな意味だ。
① 美しく飾る。美しくいろどる。あやどる。(精選版 日本国語大辞典より引用)
この本をあやなすのはいくつもの物語だ。まず、始まりの場所からして物語と縁が深い。
物語が始まるのは非常に古い宿屋兼酒場の<白鳥亭>だ。<白鳥亭>の売りは語り聞かせであり、女主人の夫で優れた語り部であるジョーをはじめとした人々が様々な物語を披露し、客はおもにそれを目当てにやってくる。ある夜、<白鳥亭>に怪我を負った男が少女を腕に抱えてやって来る。死んでいると思われた少女はしかし、その後に息を吹き返す。
奇跡の物語はだが、そこでは終わらない。複数の人間が少女を自分の娘だ、妹だと言う。誰が本当の物語を語っているのか。あるいはそこに真実はないのか?
この本では、何人もの登場人物が、いくつもの物語を生きている。ある悲劇から立ち直ることのできない、秘密を抱えた夫婦。真実を見る眼帯の女と動物とも人とも心を通わせるその夫。消えない罪の意識に苦しめられる女。時に喪失から、時に愛情から、時に罪悪感から、人は物語にすがる。物語は彼らを救うかもしれない。時にその目を塞ぎ、耐えがたい真実から目を背けさせるかもしれない。あるいは枷となるかもしれない。逃れられない過去へと自らを縛りつける枷に。
しかし、一つの出来事が語り方によって悲劇にも喜劇にもなり得るように、人々の選択がそれぞれの物語の進むべき方向を決めていく。いくつもの物語が解きほぐされ、やがていくつもの謎が解かれ(たり、解かれなかったりし)、「テムズ川の娘」という大きな物語は終わりを迎える。だがもちろんのこと、それは「テムズ川の娘」という一つの物語が終わったということに過ぎない。
あやなす、という言葉には、次のような意味もある。
④ こぼす。したたらす。流す。零(あや)す。
この物語の人ならぬ主人公であるテムズ川は、まさしく人々が涙をこぼし血を流すようにして物語を語るかたわらを流れてきた。「テムズ川の娘」という物語が始まるより前も、そしてきっと終わった後も。川自体もまた物語を生み、終わらせながら。あるいは人を惹き込むような名調子で、あるいはつたない言葉づかいで語られる物語は、時に語り手がいなくなった後も残り続ける。その永遠はたぶん、川の流れに似ている。物語をあやなし、物語であやなす、人々の生もまた。