【第54回】間室道子の本棚 『旅ドロップ』 江國香織/小学館
「元祖カリスマ書店員」として知られ、雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする、代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ・間室道子。
本連載では、当店きっての人気コンシェルジュである彼女の、頭の中にある"本棚"を覗きます。
本人のコメントと共にお楽しみください。
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『旅ドロップ』
江國香織/小学館
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「これでこの作家のナゾが解けたあ!」と叫びたくなることがある。江國香織さんは大好きな作家で、ぜんぶ(おそらく)読んできたのだけど、あの独特の「はずれていく感じ」はなんだろう、と思いながら表せなかった。でもこのエッセイでとつぜんわかった。
エッセイの一つ目に、「あの町この町」という昭和の唱歌が出て来る。あの町この町日が暮れる、ではじまり、二番の出だしは、お家がだんだん遠くなる、である。
私はこの歌の存在と歌詞の一部は知っていたけれど、曲として聞いたことがなかった。それでYou Tube(お手軽ね)で適当に検索し、女のひとのピアノ弾き語りを聞き、震えあがった。なんという不安定!
歌詞にもメロディにも怖さをあおるところはないし、女性の歌と演奏もおそらくうまいのだけど、正確に演っているのにどこか調子っぱずれな感じ。夕暮れがテーマの歌がいくつもある中、ほの暗さのケタがちがう。怪人二十面相があらわれるときに流れる曲みたいなのである。
子供というより、はすっぱなバーの女の人が開店前に外で夕涼みしながら口ずさんでいたらすごくかっこいいだろうなあと思い、これが江國香織さんの本質だ!とユリイカした。
いいおうちの少女が場末のお姉さんに抱くあこがれのようなもの。無鉄砲の裏にある「なんとしてもこれをやりとげる」という意志。男の人はいてもいいけど即座に「そう重要じゃない」にしてしまえるかっこよさ。江國作品の持つエッセンスが「あの町この町」につまっている!
『旅ドロップ』の「ドロップ」はハードキャンディーの一種であるお菓子を差すほかに、「ドロップ・アウト」=逸脱を意味しているんじゃないかと思うくらい、本書の旅は大胆で予想外。そのただならなさを「事故」とか「不運」ではなく日常のようにすいすいわたっていくのが江國さんなのだと思う。
「旅に出るにはどうしても、いったん家を“捨てる”必要がある」という感覚、70代のお母さんを江國さん姉妹でプーケットに連れていった時、後日お母さんが言った一言、ケニアに行くはずだったのに現地の空港が閉鎖されたため、まったく唐突に「そこ行きの航空券が買えたから」という理由でローマに行ったことなどなど、出て来るエピソードに仰天したりハッとっせられたりしながら、わたしの頭にはかすかに、でもしっかり「あの町この町」が聞こえていた。
エッセイの一つ目に、「あの町この町」という昭和の唱歌が出て来る。あの町この町日が暮れる、ではじまり、二番の出だしは、お家がだんだん遠くなる、である。
私はこの歌の存在と歌詞の一部は知っていたけれど、曲として聞いたことがなかった。それでYou Tube(お手軽ね)で適当に検索し、女のひとのピアノ弾き語りを聞き、震えあがった。なんという不安定!
歌詞にもメロディにも怖さをあおるところはないし、女性の歌と演奏もおそらくうまいのだけど、正確に演っているのにどこか調子っぱずれな感じ。夕暮れがテーマの歌がいくつもある中、ほの暗さのケタがちがう。怪人二十面相があらわれるときに流れる曲みたいなのである。
子供というより、はすっぱなバーの女の人が開店前に外で夕涼みしながら口ずさんでいたらすごくかっこいいだろうなあと思い、これが江國香織さんの本質だ!とユリイカした。
いいおうちの少女が場末のお姉さんに抱くあこがれのようなもの。無鉄砲の裏にある「なんとしてもこれをやりとげる」という意志。男の人はいてもいいけど即座に「そう重要じゃない」にしてしまえるかっこよさ。江國作品の持つエッセンスが「あの町この町」につまっている!
『旅ドロップ』の「ドロップ」はハードキャンディーの一種であるお菓子を差すほかに、「ドロップ・アウト」=逸脱を意味しているんじゃないかと思うくらい、本書の旅は大胆で予想外。そのただならなさを「事故」とか「不運」ではなく日常のようにすいすいわたっていくのが江國さんなのだと思う。
「旅に出るにはどうしても、いったん家を“捨てる”必要がある」という感覚、70代のお母さんを江國さん姉妹でプーケットに連れていった時、後日お母さんが言った一言、ケニアに行くはずだったのに現地の空港が閉鎖されたため、まったく唐突に「そこ行きの航空券が買えたから」という理由でローマに行ったことなどなど、出て来るエピソードに仰天したりハッとっせられたりしながら、わたしの頭にはかすかに、でもしっかり「あの町この町」が聞こえていた。