【第48回】間室道子の本棚 『十代に共感する奴はみんな嘘つき』 最果タヒ/文春文庫
「元祖カリスマ書店員」として知られ、雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする、代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ・間室道子。
本連載では、当店きっての人気コンシェルジュである彼女の、頭の中にある"本棚"を覗きます。
本人のコメントと共にお楽しみください。
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『十代に共感する奴はみんな嘘つき』
最果タヒ/文春文庫
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書評を書くとき、「面白さが読者に伝わるかなあ」のほかに、登場人物は私にこんなこと書かれてどう思うんだろう、と気にすることがある。
本書でひさしぶりにそういう気持ちになった。主人公は十七歳の高校生女子カズハで、すごくするどい。何を書いても「見当違いもいいとこ」と言われそうだし、「見当違いもいいとこ、と言うと思うなんて、見当違いもいいとこ。一切感想ナシ」と言われそうでもある。ようするにカズハにびびっているのだ。
というわけで、今回は感想ではなく小説の身体能力測定みたいな感じで書いていこうと思う。
ストーリーは、通常の物語であれば劇的な要素――告白と撤回、カズハがハブられる、教室ででかいヘッドフォンをつけたまま周囲を遮断していながら「周りはこんな私に声は掛けてくれないの」とアピール(?)してるクラスメイト女子、陸上部のさわやか沢くん、カズハの兄、その結婚宣言、婚約相手の浮気、兄の親友(自殺願望あり)を有していながら、サラリと進んでいく。圧巻はカズハの内面の速度だ。
カズハは息せき切って考えをほとばしらせる。このスピードと感度は彼女が十代ならでは。あと、前半は学校、後半の最初は家でのできごとなのだが、モノローグの速度が変わるのがわかる。
ふつうはいったん文体を決めたら、主人公はどういう場面でもずっと同じタッチで考えたりしゃべったりするのだけど、私たちの考えや感情の処理時間は、外と家では、きのうのできごとのあとの今日では、ぜったいに変化する。本書は場面の切り替わりできちんと心情の速度加減をしており、あたらしい読み味が生まれている。
スピードと感度は「十代ならでは」と書いたが、それは「願わくばもう一度」ではない。二十代三十代それ以上でこんなひたすらのほとばしりを見せたら、生活していけないだろう。
著者はあとがきで「過去のきみは、きみの所有物ではない」「過去の私は、正しくは私ではない。もう、とっくに他人になった。理解なんてできるわけもなく、コントロールもできるわけがなく、今さら懐かしいとか嫌いとか好きとか、思うことすら図々しくて」と書いている。これは言ってみれば、十代の自分と今の自分はロゼッタストーンとラインくらい違う、ということではないか。
ロゼッタストーンは将来ラインまでいけたらいいなと思っていたわけではないし、ラインはラインで「ロゼッタストーン、手書きっていうか手彫りすげえ、絵文字のまじ最強スタイル」とリスペクトしてるわけではない。言葉を伝えるという線ではつながっているけれど、まるでベツモノ。青春を振り返るならそれくらいの認識でいないと、過去も現在もダメにしてしまうのだ。
文庫版あとがきで著者は、「もう、理想の自分は過去にいると思い込むのは諦めたい。脆いも、最強も正しいも、繊細、率直も、全部、今やればいいんじゃない?」と書いている。
十代の類似やモドキではないやりかたで、2019年6月の自分の最強を、脆さを、世界に放ちたい、と思った。