【第250回】間室道子の本棚 『シェニール織とか黄肉のメロンとか』江國香織/角川春樹事務所。
「元祖カリスマ書店員」として知られ、雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする、代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ・間室道子。
本連載では、当店きっての人気コンシェルジュである彼女の、頭の中にある"本棚"を覗きます。
本人のコメントと共にお楽しみください。
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『シェニール織とか黄肉のメロンとか』
江國香織/角川春樹事務所。
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大学入学早々に知り合って親友になり約四十年。五十六とか五十七歳になった「三人娘」を中心にすえたお話で、中のひとりが長年いた英国から帰国し、また顔をあわせての集まりや行き来がはじまる。
このテの小説って、互いに「もう若くないのね」とか、男性がからめば「今さら恋なんて」とか、子供の巣立ちとか高齢者のお世話とかがあれば「そろそろ私も終活」という方向になりがち。でも本書はぜんぜんちがう!それは彼女たちが「ピーク」を持たないからだろう。
民子は八十歳になる母の薫と二人暮らしで独身。「正体不明の物書き」として生計をたてており、受賞歴もあるのだけど派手な活躍、といった時期がない。今は初めての「SF恋愛小説」を書いている。
早希は主婦で、家には高校生の次男と夫がいる。昨年長男が就職を機に家を出たけど、男三人から二人になったからといって、「なにかが軽減された」はない。「男たちのいる家のなかをつねに清潔に保つには、おそろしいまでの労力が要るのだ」という言葉に共感する女性陣は多いはず。
外資系の金融会社に勤務し、英語圏の国と日本を股にかけ恋愛も仕事もばりばりの理佐は、「結婚と離婚(のようなもの)」が二度ずつ。帰国した今は民子の家に同居させてもらっている。ひさびさに「三人娘」で会食した夜、「めくるめく関係」について大胆な発言をする。
読みながら考えたのは、エイジレスということ。さっき「大胆」と書いたけど、昔の日本なら年齢がすすむにつれ、誰もが「年相応」の言葉遣い、服装、立ち振る舞いに自分をはめ込んでいた。でも今、たとえば「わし」と言う男性はいない。六十代七十代でもみんな「俺」「僕」と言ってるし、先日テレビに映っていた女性は、あざやかなTシャツを着て「還暦、イエ―!」とVサインを出していた。
「しみじみ年寄りくさく呟いてしまう」「その微笑みがひどく年寄りじみて見え」といった文章もあり、「三人娘」が自身や目の前の相手が年をとったと虚をつかれる場面もある。でも彼女たちはそこに、昔とくらべてだめになったとか、おとろえた、くだり坂だ、という価値観を入れない。民子が昔のアルバムを見て、若さを尊く感じるどころか「三人ともいまとは全然違う人間のようなのに、理枝ははっきりと理枝であり、早希は頑固なまでに早希で、おそらく自分もそうなのだろうと思うと、なんだか不気味でおそろしかった」と思うのが新鮮だった。
ほかにも、「百地、いいふうに壊れたわね。(中略)男の人って年を取ると壊れるのよ」という理枝の発言や(百地はかつて民子とつきあっていた男性)、八十歳・薫の「甘ったれってね、決して子供の特権じゃないのよ」というせりふ。そして、かつては友達の恋人がどんな男性か興味津々だったのに、彼女たちの夫に対しては興味が薄いのはなぜ、と民子が思うシーンなど、小説のまなざしがフレッシュ。
エイジレスとは「いつまでも若く」ではなく、年齢をブレーキにしないことなんだろう。最先端は薫だ。彼女は昨年からスイミングプールに通い始め、デパートで骨粗鬆症予防になるという「ぴょんぴょん跳ねるクッション」を購入し、きわめつけはある日買い物帰りに衝動的にある場所に行き、あることをする。
母のそんな行動を知るたび民子は「老人がいきなりそんなことをして」とか「八十の人が」と反対したり、般若の形相になったりするのだが(薫は娘のきつい言い方の裏にあるのは怒りではなく、不安、恐がりなのだと知っている)、読みながら、じゃあ、たとえばいつ?と声をかけたくなった。
SFめいてしまうが、薫がもし民子と同じ五十七歳だったら、母の「買い物帰りの即日即決」を娘は「許す」のだろうか?ますますSFだが、もし薫が民子より年下の四十代、三十代ならこの夜のことを「あら、そうなの、ふーん」ですますだろうか。また薫は五年先の八十五歳だったら、これをやらないだろうか?
私の考えでは、薫は「今でなければいつ?」の人なのだ。
薫、そして「三人娘」以外にも、たくさんの人がでてくる。それぞれの「今でなければ」に溢れた長篇小説。おすすめ。
このテの小説って、互いに「もう若くないのね」とか、男性がからめば「今さら恋なんて」とか、子供の巣立ちとか高齢者のお世話とかがあれば「そろそろ私も終活」という方向になりがち。でも本書はぜんぜんちがう!それは彼女たちが「ピーク」を持たないからだろう。
民子は八十歳になる母の薫と二人暮らしで独身。「正体不明の物書き」として生計をたてており、受賞歴もあるのだけど派手な活躍、といった時期がない。今は初めての「SF恋愛小説」を書いている。
早希は主婦で、家には高校生の次男と夫がいる。昨年長男が就職を機に家を出たけど、男三人から二人になったからといって、「なにかが軽減された」はない。「男たちのいる家のなかをつねに清潔に保つには、おそろしいまでの労力が要るのだ」という言葉に共感する女性陣は多いはず。
外資系の金融会社に勤務し、英語圏の国と日本を股にかけ恋愛も仕事もばりばりの理佐は、「結婚と離婚(のようなもの)」が二度ずつ。帰国した今は民子の家に同居させてもらっている。ひさびさに「三人娘」で会食した夜、「めくるめく関係」について大胆な発言をする。
読みながら考えたのは、エイジレスということ。さっき「大胆」と書いたけど、昔の日本なら年齢がすすむにつれ、誰もが「年相応」の言葉遣い、服装、立ち振る舞いに自分をはめ込んでいた。でも今、たとえば「わし」と言う男性はいない。六十代七十代でもみんな「俺」「僕」と言ってるし、先日テレビに映っていた女性は、あざやかなTシャツを着て「還暦、イエ―!」とVサインを出していた。
「しみじみ年寄りくさく呟いてしまう」「その微笑みがひどく年寄りじみて見え」といった文章もあり、「三人娘」が自身や目の前の相手が年をとったと虚をつかれる場面もある。でも彼女たちはそこに、昔とくらべてだめになったとか、おとろえた、くだり坂だ、という価値観を入れない。民子が昔のアルバムを見て、若さを尊く感じるどころか「三人ともいまとは全然違う人間のようなのに、理枝ははっきりと理枝であり、早希は頑固なまでに早希で、おそらく自分もそうなのだろうと思うと、なんだか不気味でおそろしかった」と思うのが新鮮だった。
ほかにも、「百地、いいふうに壊れたわね。(中略)男の人って年を取ると壊れるのよ」という理枝の発言や(百地はかつて民子とつきあっていた男性)、八十歳・薫の「甘ったれってね、決して子供の特権じゃないのよ」というせりふ。そして、かつては友達の恋人がどんな男性か興味津々だったのに、彼女たちの夫に対しては興味が薄いのはなぜ、と民子が思うシーンなど、小説のまなざしがフレッシュ。
エイジレスとは「いつまでも若く」ではなく、年齢をブレーキにしないことなんだろう。最先端は薫だ。彼女は昨年からスイミングプールに通い始め、デパートで骨粗鬆症予防になるという「ぴょんぴょん跳ねるクッション」を購入し、きわめつけはある日買い物帰りに衝動的にある場所に行き、あることをする。
母のそんな行動を知るたび民子は「老人がいきなりそんなことをして」とか「八十の人が」と反対したり、般若の形相になったりするのだが(薫は娘のきつい言い方の裏にあるのは怒りではなく、不安、恐がりなのだと知っている)、読みながら、じゃあ、たとえばいつ?と声をかけたくなった。
SFめいてしまうが、薫がもし民子と同じ五十七歳だったら、母の「買い物帰りの即日即決」を娘は「許す」のだろうか?ますますSFだが、もし薫が民子より年下の四十代、三十代ならこの夜のことを「あら、そうなの、ふーん」ですますだろうか。また薫は五年先の八十五歳だったら、これをやらないだろうか?
私の考えでは、薫は「今でなければいつ?」の人なのだ。
薫、そして「三人娘」以外にも、たくさんの人がでてくる。それぞれの「今でなければ」に溢れた長篇小説。おすすめ。
代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ
間 室 道 子
【プロフィール】
雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする「元祖カリスマ書店員」。雑誌『婦人画報』、朝日新聞デジタル「ほんやのほん」などに連載を持つ。書評家としても活動中で、文庫解説に『蒼ざめた馬』(アガサ・クリスティー/ハヤカワクリスティー文庫)、『母性』(湊かなえ/新潮文庫)、『蛇行する月』(桜木紫乃/双葉文庫)、『スタフ staph』(道尾秀介/文春文庫)などがある。