【第225回】間室道子の本棚 『坂下あたると、しじょうの宇宙』町屋良平/集英社文庫
「元祖カリスマ書店員」として知られ、雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする、代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ・間室道子。
本連載では、当店きっての人気コンシェルジュである彼女の、頭の中にある"本棚"を覗きます。
本人のコメントと共にお楽しみください。
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『坂下あたると、しじょうの宇宙』
町屋良平/集英社文庫
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登場するのは、文学の才能にあふれ、文芸系のサイトに作品を発表すれば反響を呼び、すでに多くのファンもいる高校生の坂下あたると、おれのはあたるの言葉の削りかすみたいなものを拾い集めているだけなんじゃないかという思いから、自分も詩を書いているとあたるに打ち明けられないでいる佐藤毅。
悶々は無理もないのだ。だって毅は本を読まない。芥川も太宰も春樹もその他も。教科書以外の文章をほとんど読んだことがない。唯一読むのがあたるの短編や評論やエッセイ。そして時々聞くのが、決壊したダムの如くあたるの口から放出される文学への愛。
“触発されちゃう!”とか“刺激をもらえた!”どころか、あたるの書くものも語ることも、毅には毎回、さっぱりわからない。にもかかわらず、意識にこびりつき、あたまのなかで鳴りやまず、自分を詩に向かわせるあたるのことば――。
そんな日々のなか、投稿サイトにあたるのにせものがあらわれ、本人を凌駕していく。その正体は――というお話。
文学とはなにか、オリジナルとはなにかという壮大なテーマのあちこちに、令和の若者たちの息づかいがちりばめられているのがいい。彼らは互いのテリトリーに敏感で慎重だ。
たとえば毅は、あたるのGFのさとか(非常にかわいいが言動バイオレンス系)から、キュートな女の子・蕾を紹介される。さとかはこの子を愛らしいあだ名で呼んでおり、時代が昭和か平成なら、毅の次のせりふは「おれもそう呼んでいい?」であろう。
じつは蕾も「さすがさとかの親友」的性格なので、言ったとたんに毅がぶっ飛ばされる可能性が高いけど、とにかくこのアプローチは、2000年代くらいまで男女の出会いにおける常套句であった。でも今はそこ、行かないんだー。これがすごく印象的だった。たぶん、「その呼び名はさとかと蕾の関係性であって、自分がいきなり踏み込んでいいものではない」という判断なのだろう。
一方彼らは、ぜんぜん心を捧げてない人物に己のもっとも弱い姿をさらけだしたりする。ジェンダーレスで愛する人に弁当を作る。相手を原宿のカフェに呼び出しお茶したあと、「わたし、買い物はひとりでする派なんで」と急に解散を告げる。好きだと告げて叶わず、半年後にその子の友だちに告白する自分を「こんなにすぐ」と責めぎみに思ったりする。令和の距離感がすごく新鮮だった。
じゃあ現実に女子に弁当作ってる男子は何人いますか~、玉砕した子の親友に告白するのは半年後じゃ早いって何パーが思ってるんですか~ではないの。「こんな子らはこの小説の中だけ」でもいいの。だって、登場人物ひとりの行動で時代の空気感を活写する。これが作家ってもんでしょ。町屋良平は最高だ!
閑話休題、あたるのにせものの正体は、いまや社会になくてはならないけど脅威も取り沙汰されている”あれ”である。で、医療、金融、労働からゲームの世界まで幅広い分野に進出している”あれ”が、「文学に向いている」という視点が面白かった。
一般的人間が創作活動をする場合、作家デビューしてワーキャー言われたいとか夢の印税生活とか、欲や邪念が多少はあるものだ。あたるも、自分はプロに?となったとき、揺れた。でもそれは有名とかお金とかモテの話ではなく、「坂下あたるの小説はどうなる?」と考えこんだのである。ひるみや苦悶さえ、核にあるのはひたすらの文学まっしぐら。この純粋さは”あれ”ととてもよく似ているのだ。
だが純度を高めることだけに邁進した作品がどうなるか。後半ものすごいことになる!
“あれ”と、あたるや毅との違い、人間にあって”あれ”にないものは、本書になんどか出て来る祈りのような言葉だ。それは、「届け」。
著者の新たなる代表作。猛プッシュ!
悶々は無理もないのだ。だって毅は本を読まない。芥川も太宰も春樹もその他も。教科書以外の文章をほとんど読んだことがない。唯一読むのがあたるの短編や評論やエッセイ。そして時々聞くのが、決壊したダムの如くあたるの口から放出される文学への愛。
“触発されちゃう!”とか“刺激をもらえた!”どころか、あたるの書くものも語ることも、毅には毎回、さっぱりわからない。にもかかわらず、意識にこびりつき、あたまのなかで鳴りやまず、自分を詩に向かわせるあたるのことば――。
そんな日々のなか、投稿サイトにあたるのにせものがあらわれ、本人を凌駕していく。その正体は――というお話。
文学とはなにか、オリジナルとはなにかという壮大なテーマのあちこちに、令和の若者たちの息づかいがちりばめられているのがいい。彼らは互いのテリトリーに敏感で慎重だ。
たとえば毅は、あたるのGFのさとか(非常にかわいいが言動バイオレンス系)から、キュートな女の子・蕾を紹介される。さとかはこの子を愛らしいあだ名で呼んでおり、時代が昭和か平成なら、毅の次のせりふは「おれもそう呼んでいい?」であろう。
じつは蕾も「さすがさとかの親友」的性格なので、言ったとたんに毅がぶっ飛ばされる可能性が高いけど、とにかくこのアプローチは、2000年代くらいまで男女の出会いにおける常套句であった。でも今はそこ、行かないんだー。これがすごく印象的だった。たぶん、「その呼び名はさとかと蕾の関係性であって、自分がいきなり踏み込んでいいものではない」という判断なのだろう。
一方彼らは、ぜんぜん心を捧げてない人物に己のもっとも弱い姿をさらけだしたりする。ジェンダーレスで愛する人に弁当を作る。相手を原宿のカフェに呼び出しお茶したあと、「わたし、買い物はひとりでする派なんで」と急に解散を告げる。好きだと告げて叶わず、半年後にその子の友だちに告白する自分を「こんなにすぐ」と責めぎみに思ったりする。令和の距離感がすごく新鮮だった。
じゃあ現実に女子に弁当作ってる男子は何人いますか~、玉砕した子の親友に告白するのは半年後じゃ早いって何パーが思ってるんですか~ではないの。「こんな子らはこの小説の中だけ」でもいいの。だって、登場人物ひとりの行動で時代の空気感を活写する。これが作家ってもんでしょ。町屋良平は最高だ!
閑話休題、あたるのにせものの正体は、いまや社会になくてはならないけど脅威も取り沙汰されている”あれ”である。で、医療、金融、労働からゲームの世界まで幅広い分野に進出している”あれ”が、「文学に向いている」という視点が面白かった。
一般的人間が創作活動をする場合、作家デビューしてワーキャー言われたいとか夢の印税生活とか、欲や邪念が多少はあるものだ。あたるも、自分はプロに?となったとき、揺れた。でもそれは有名とかお金とかモテの話ではなく、「坂下あたるの小説はどうなる?」と考えこんだのである。ひるみや苦悶さえ、核にあるのはひたすらの文学まっしぐら。この純粋さは”あれ”ととてもよく似ているのだ。
だが純度を高めることだけに邁進した作品がどうなるか。後半ものすごいことになる!
“あれ”と、あたるや毅との違い、人間にあって”あれ”にないものは、本書になんどか出て来る祈りのような言葉だ。それは、「届け」。
著者の新たなる代表作。猛プッシュ!
代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ
間 室 道 子
【プロフィール】
雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする「元祖カリスマ書店員」。雑誌『婦人画報』、朝日新聞デジタル「ほんやのほん」などに連載を持つ。書評家としても活動中で、文庫解説に『蒼ざめた馬』(アガサ・クリスティー/ハヤカワクリスティー文庫)、『母性』(湊かなえ/新潮文庫)、『蛇行する月』(桜木紫乃/双葉文庫)、『スタフ staph』(道尾秀介/文春文庫)などがある。