【第198回】間室道子の本棚 『リリアンと燃える双子の終わらない夏』ケヴィン・ウィルソン 芹澤恵訳/集英社
「元祖カリスマ書店員」として知られ、雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする、代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ・間室道子。
本連載では、当店きっての人気コンシェルジュである彼女の、頭の中にある"本棚"を覗きます。
本人のコメントと共にお楽しみください。
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『リリアンと燃える双子の終わらない夏』
ケヴィン・ウィルソン 芹澤恵訳/集英社
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まずは翻訳の芹澤恵さんと編集者の方の英断に拍手。邦題はねたバレなのである!
訳者あとがきにあるように、原題は『Nothing to See Here』=「ここには見るべきものはありません」。英語圏で交通事故や火事場で警官が野次馬に発するおなじみの言葉で、込められた意味は「ここで止まらないでくださーい。さあ、行った行った」。
それが『リリアンと燃える双子の終わらない夏』。そう、本書には「人体が発火する双子」が登場するのである!
で、思うに、原題のニュアンス=「こんなところで立ち止まってはいけないよ」が本書のスピード感にぴったり。訳者も編集者も「邦題がネタバレなんてことがビクともしない小説でーす。ページをめくっていってくださーい」と言いたいであろう。
リリアン二十八歳。いまだに実家ぐらし。サエない仕事、マリファナでぼーっとする夜。そんな人生落ちこぼれの彼女のもとに、友人のマディソンから「あなたにぴったりの仕事がある」という手紙が届く。
マディソン。同い年。貧困母子家庭育ちのリリアンが優秀さを買われ入学を許可された寄宿舎つき女子校で同室になった娘。とんでもないお金持ち。でも彼女も同じくらいこのお嬢様学校で浮いていた。ふたりはたちまち仲良しに。だがリリアンは退校となる。マディソンがしでかしたことの身代わりになって。
ここまでほんの二十七ページ。ふつうの書き手なら、それぞれにユニークな彼女たちの内面や学校生活のいろんなエピソード、二人の別れについて、百ページぐらい書いてしまうところだ。だって膨らませたらいくらでも面白くなりそう。でも作者ケヴィン・ウィルソンはそれをよしとしない。さっさと話を進める。こんなことができるのも、彼が「この人を描くにはこのエピソードで十分」が天才的だからだ。
マディソンは生まれながらの女王様だが、ほーっほっほっほと扇で口元を隠し高笑いするタイプではなく、アメリカ合衆国大統領を「将来なってもいいかもしれないもののひとつ」と考えるような女性。現在は上院議員ジャスパーの妻で、夫の今は彼女のおかげ。
一方のリリアンはスーパーで働いているんだけど、なんと互いがライバルである二店をかけもちしている。たくましい。あるいはずうずうしい。ある意味ワイルド。とにかく素っ頓狂。めげそうな人生を自分で茶化しながら生きてる雰囲気もある。
で、マディソンがリリアンを呼びつけたのは、広大なお屋敷の離れで、れいの「興奮すると燃え出す子供たち」のお世話係になってもらうためであった。
双子。男女。十歳。彼らを生んだのは議員の元妻ジェーンで、離婚後子供たちを連れて家を出た彼女が先日亡くなり、彼らは父親に引き取られることになったのだ。
マディソンと議員の間にはティモシーという三歳児がいて、こちらにはなんの問題もない。だから双子の発火はジェーンの家系に由来しているにちがいない、あの人自身がものすごい変人の放火魔だったと言われても驚かない、とマディソンがリリアンに熱弁をふるうのが、身代わり放校から二十数ページ後のこと。
書こうと思えば再会までの日々や、ジャスパー議員が一時熱を上げていた「へんてこな帽子と馬に眼がない女性の一件」についてもっと盛り込めそうなものだが、著者は、さあ、進んで進んで、をゆるめない。リリアンと双子の生活すら、とっとと進む。なぜなら、このあととんでもないことが待ちかまえているからだ!
「燃える双子」という飛び道具を出しながら、本書の読みどころはなんといっても女二人の関係だ。私の考えでは、マディソンがクイーンなら、リリアンはジョーカー。
ジョーカーは女王と「対等」ではない。でも「下」に位置するわけでもない。政治やお金のパワーゲームのルールが通用せず、吉と出るか凶とでるかはわからないけど現状を打破する動きをする者。そんなリリアンを呼んだマディソンのすごさも、また感じざるを得ない。
マディソンにとって運命をともにする者は、夫ジャスパーではなくリリアン。本書はいっぷう変わった女性のバディ物語なのだ。
私が好きなのは、ラスト近くでふたりの人物がリリアンに手をひと振りするシーン。一人はお屋敷のメイドさん(瞬間移動のように現れ、空になったカップにコーヒーを注ぐ)で、もう一人は母親だ。
メイドさんは「車に乗っていきませんか」という誘いに手を振り、「ノー」の合図をする。昔も今も親子のつながりなんてものからほど遠い母は、実家に戻った娘の「ありがと、母さん」という言葉を退けるように手をさっと動かす。
でもこれらは、しっしっ、と追い払う意味ではないと思う。「あなたには考えてやるべき人がほかにいる。その人たちと前進しなさい」という気持ちが、読んでいて伝わった。
人は絆を構築せずとも誰かを励ますことができるし、愛が無理な場合、「ここで立ち止まらないで、行って!」と関係から解放してやることだってできるのだ。
ちなみに著者のケヴィン・ウィルソンは、先週紹介した『やりなおし世界文学』の中で、津村記久子さんが、「ここ数年の自分が”この人のように書けるようになりたい”と思っている作家」として名前をあげている人である。とにかくすごい作品。面白いですよ!
訳者あとがきにあるように、原題は『Nothing to See Here』=「ここには見るべきものはありません」。英語圏で交通事故や火事場で警官が野次馬に発するおなじみの言葉で、込められた意味は「ここで止まらないでくださーい。さあ、行った行った」。
それが『リリアンと燃える双子の終わらない夏』。そう、本書には「人体が発火する双子」が登場するのである!
で、思うに、原題のニュアンス=「こんなところで立ち止まってはいけないよ」が本書のスピード感にぴったり。訳者も編集者も「邦題がネタバレなんてことがビクともしない小説でーす。ページをめくっていってくださーい」と言いたいであろう。
リリアン二十八歳。いまだに実家ぐらし。サエない仕事、マリファナでぼーっとする夜。そんな人生落ちこぼれの彼女のもとに、友人のマディソンから「あなたにぴったりの仕事がある」という手紙が届く。
マディソン。同い年。貧困母子家庭育ちのリリアンが優秀さを買われ入学を許可された寄宿舎つき女子校で同室になった娘。とんでもないお金持ち。でも彼女も同じくらいこのお嬢様学校で浮いていた。ふたりはたちまち仲良しに。だがリリアンは退校となる。マディソンがしでかしたことの身代わりになって。
ここまでほんの二十七ページ。ふつうの書き手なら、それぞれにユニークな彼女たちの内面や学校生活のいろんなエピソード、二人の別れについて、百ページぐらい書いてしまうところだ。だって膨らませたらいくらでも面白くなりそう。でも作者ケヴィン・ウィルソンはそれをよしとしない。さっさと話を進める。こんなことができるのも、彼が「この人を描くにはこのエピソードで十分」が天才的だからだ。
マディソンは生まれながらの女王様だが、ほーっほっほっほと扇で口元を隠し高笑いするタイプではなく、アメリカ合衆国大統領を「将来なってもいいかもしれないもののひとつ」と考えるような女性。現在は上院議員ジャスパーの妻で、夫の今は彼女のおかげ。
一方のリリアンはスーパーで働いているんだけど、なんと互いがライバルである二店をかけもちしている。たくましい。あるいはずうずうしい。ある意味ワイルド。とにかく素っ頓狂。めげそうな人生を自分で茶化しながら生きてる雰囲気もある。
で、マディソンがリリアンを呼びつけたのは、広大なお屋敷の離れで、れいの「興奮すると燃え出す子供たち」のお世話係になってもらうためであった。
双子。男女。十歳。彼らを生んだのは議員の元妻ジェーンで、離婚後子供たちを連れて家を出た彼女が先日亡くなり、彼らは父親に引き取られることになったのだ。
マディソンと議員の間にはティモシーという三歳児がいて、こちらにはなんの問題もない。だから双子の発火はジェーンの家系に由来しているにちがいない、あの人自身がものすごい変人の放火魔だったと言われても驚かない、とマディソンがリリアンに熱弁をふるうのが、身代わり放校から二十数ページ後のこと。
書こうと思えば再会までの日々や、ジャスパー議員が一時熱を上げていた「へんてこな帽子と馬に眼がない女性の一件」についてもっと盛り込めそうなものだが、著者は、さあ、進んで進んで、をゆるめない。リリアンと双子の生活すら、とっとと進む。なぜなら、このあととんでもないことが待ちかまえているからだ!
「燃える双子」という飛び道具を出しながら、本書の読みどころはなんといっても女二人の関係だ。私の考えでは、マディソンがクイーンなら、リリアンはジョーカー。
ジョーカーは女王と「対等」ではない。でも「下」に位置するわけでもない。政治やお金のパワーゲームのルールが通用せず、吉と出るか凶とでるかはわからないけど現状を打破する動きをする者。そんなリリアンを呼んだマディソンのすごさも、また感じざるを得ない。
マディソンにとって運命をともにする者は、夫ジャスパーではなくリリアン。本書はいっぷう変わった女性のバディ物語なのだ。
私が好きなのは、ラスト近くでふたりの人物がリリアンに手をひと振りするシーン。一人はお屋敷のメイドさん(瞬間移動のように現れ、空になったカップにコーヒーを注ぐ)で、もう一人は母親だ。
メイドさんは「車に乗っていきませんか」という誘いに手を振り、「ノー」の合図をする。昔も今も親子のつながりなんてものからほど遠い母は、実家に戻った娘の「ありがと、母さん」という言葉を退けるように手をさっと動かす。
でもこれらは、しっしっ、と追い払う意味ではないと思う。「あなたには考えてやるべき人がほかにいる。その人たちと前進しなさい」という気持ちが、読んでいて伝わった。
人は絆を構築せずとも誰かを励ますことができるし、愛が無理な場合、「ここで立ち止まらないで、行って!」と関係から解放してやることだってできるのだ。
ちなみに著者のケヴィン・ウィルソンは、先週紹介した『やりなおし世界文学』の中で、津村記久子さんが、「ここ数年の自分が”この人のように書けるようになりたい”と思っている作家」として名前をあげている人である。とにかくすごい作品。面白いですよ!
代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ
間 室 道 子
【プロフィール】
雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする「元祖カリスマ書店員」。雑誌『婦人画報』、電子雑誌「旅色 TABIIRO」、朝日新聞デジタル「ほんやのほん」などに連載を持つ。書評家としても活動中で、文庫解説に『タイニーストーリーズ』(山田詠美/文春文庫)、『母性』(湊かなえ/新潮文庫)、『蛇行する月』(桜木紫乃/双葉文庫)、『スタフ staph』(道尾秀介/文春文庫)などがある。