【第193回】間室道子の本棚 『子宝船 きたきた捕物帖(二)』宮部みゆき/PHP研究所
「元祖カリスマ書店員」として知られ、雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする、代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ・間室道子。
本連載では、当店きっての人気コンシェルジュである彼女の、頭の中にある"本棚"を覗きます。
本人のコメントと共にお楽しみください。
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『子宝船 きたきた捕物帖(二)』
宮部みゆき/PHP研究所
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死んでしまった十手持ちの千吉親分(モテモテ!女性のみならず、たいへんな人たらしであった)の子分の中でも下の下の下下下だった十六歳の北一が、亡き親分のおかみさん(目が不自由だけど頭がよくて鼻と耳が利き、そのへんの皆さんよりよっぽど「見えている」。いよっ、千里眼!)とともに江戸の事件を解決していく第二弾。
シリーズものの魅力はアトを引く人物像だ、と恩田陸さんがエッセイで書いていたが、宮部先生の江戸ミステリーはほんとにアト引きまくり。
なんといっても第一弾の『きたきた捕物帖』(先日文庫化。お買い得!)の後半で、話したいことがある、と北一宛てに伝言を残していた貸本屋の村田屋治兵衛が、この続編の三十一ページで、先日ご相談があるってお伝えしておいたはずなんですが、お忘れですか、私もね、こう見えて暇じゃあないんですよ、と溜息をつきながらようやく北一をつかまえるのである。『きたきた』の単行本が世に出たのは2020年。でもついきのうのことのように登場人物たちが読者の前にあらわれる。待ってました!
さらに、正編ではお名前だけで登場はしなかった人物が今回貫録たっぷりに姿を見せる。さらに前回御目通りがかなわなかったお方にも本書で北一は会うことができ、その意外性に腰を抜かす。
もちろん一作目を読んでからのほうが人間関係はわかりやすい。しかし『きたきた』の前には同じ長屋を舞台にした『桜ほうさら』があり、さらには例の貫禄の御仁が活躍する本もある。彼の親分にあたる人が主人公をつとめる連作もある。
よいシリーズものは「どこから読み始めても大丈夫」という力をもっていると思う。でないとめでたく続いてるのに「今までのお話をぜんぶクリアしないと楽しめないの?」と読者の腰がひけてしまうからだ。
わたしの考えでは、宮部先生は町を作っているのだ。そこには人と時の流れがある。ご町内になじむには、「一番最初に住みついた人から順繰りに出会わないとダメ」なんてことはない。読者が最初に出会った人と仲良くなればいいのだ。気になる人物がいたら、さかのぼって会いにいけばいい。現実の世界だって、しばらくしてからその人の過去や意外な人間関係を知ったりするもの。
かようにいろんな人物が縦横無尽に行き交う宮部さんの江戸シリーズだが、今回の『子宝船』では、「ああ、あのときのあの子がこんなに立派になって!」がある。あとでその人の子供時代のお話(ちなみに『ぼんくら』シリーズです)を手にとれば、むしろ順序よく読むより、「彼にこんな過去があったんだなあ」としみじみ度が深いかもしれない。
宮部ミステリーといえば、なんといっても謎のたて方が素晴らしいし(表題作では、赤ん坊に不幸があった家でのちに文箱を調べてみたら、子宝を授かると評判の七福神の絵から赤ちゃんを抱いた弁天様が消えていた!)、千吉親分の、岡っ引きのハウツーというより人としての教え(たとえば「掃除のできねえ奴は、他のどんな立派なことができたって、ろくな奴じゃねえ」)も沁みるけど、今回私がいちばん打たれたのは、お餅のエピソード。
北一には誰にも知られていない相棒がいる。同い年ぐらいで、肩に烏天狗のような彫りもののある喜多次。もうひとりの「きたさん」である。
この子は行き倒れていたところをおんぼろ湯屋の老夫婦に助けられ、そのまま釜焚きとして働いている。煤や土埃にまみれた真っ黒な顔。ぼうぼうの髪。しかし、彼がほんとうは人形みたいにきれいな顔をしているのを北一は知っている。あと、喜多次はおそろしく無口である。
しかし本書では、北一がまだあたたかい豆餅を差し入れしたとき、「丸い豆餅、初めて見た」と言葉が発された。そのあとふたりは餅のかたちについて話をし、謎めいた相棒は、自分の故郷の豆餅は、四角いのを斜めに切って、三角にする、正月の雑煮の餅も豆餅だ、と続けた。
なぜ行き倒れていたのか、彫りものはなにを意味するのか。「一族」「系図」「家紋」という言葉をこともなげに使うがどういう生まれなのか。痩せこけていながらなぜ腕っぷしが強いのか(剛の者というより、彼は人間の急所を知っている)、なにも語らない喜多治が、自分の家のお餅のことを語っている・・・!
どんな只者でない人物にも生活があり、生きてきた思い出がある。それをしっかり描くのが宮部作品の魅力。第三弾に、大いに期待する。
シリーズものの魅力はアトを引く人物像だ、と恩田陸さんがエッセイで書いていたが、宮部先生の江戸ミステリーはほんとにアト引きまくり。
なんといっても第一弾の『きたきた捕物帖』(先日文庫化。お買い得!)の後半で、話したいことがある、と北一宛てに伝言を残していた貸本屋の村田屋治兵衛が、この続編の三十一ページで、先日ご相談があるってお伝えしておいたはずなんですが、お忘れですか、私もね、こう見えて暇じゃあないんですよ、と溜息をつきながらようやく北一をつかまえるのである。『きたきた』の単行本が世に出たのは2020年。でもついきのうのことのように登場人物たちが読者の前にあらわれる。待ってました!
さらに、正編ではお名前だけで登場はしなかった人物が今回貫録たっぷりに姿を見せる。さらに前回御目通りがかなわなかったお方にも本書で北一は会うことができ、その意外性に腰を抜かす。
もちろん一作目を読んでからのほうが人間関係はわかりやすい。しかし『きたきた』の前には同じ長屋を舞台にした『桜ほうさら』があり、さらには例の貫禄の御仁が活躍する本もある。彼の親分にあたる人が主人公をつとめる連作もある。
よいシリーズものは「どこから読み始めても大丈夫」という力をもっていると思う。でないとめでたく続いてるのに「今までのお話をぜんぶクリアしないと楽しめないの?」と読者の腰がひけてしまうからだ。
わたしの考えでは、宮部先生は町を作っているのだ。そこには人と時の流れがある。ご町内になじむには、「一番最初に住みついた人から順繰りに出会わないとダメ」なんてことはない。読者が最初に出会った人と仲良くなればいいのだ。気になる人物がいたら、さかのぼって会いにいけばいい。現実の世界だって、しばらくしてからその人の過去や意外な人間関係を知ったりするもの。
かようにいろんな人物が縦横無尽に行き交う宮部さんの江戸シリーズだが、今回の『子宝船』では、「ああ、あのときのあの子がこんなに立派になって!」がある。あとでその人の子供時代のお話(ちなみに『ぼんくら』シリーズです)を手にとれば、むしろ順序よく読むより、「彼にこんな過去があったんだなあ」としみじみ度が深いかもしれない。
宮部ミステリーといえば、なんといっても謎のたて方が素晴らしいし(表題作では、赤ん坊に不幸があった家でのちに文箱を調べてみたら、子宝を授かると評判の七福神の絵から赤ちゃんを抱いた弁天様が消えていた!)、千吉親分の、岡っ引きのハウツーというより人としての教え(たとえば「掃除のできねえ奴は、他のどんな立派なことができたって、ろくな奴じゃねえ」)も沁みるけど、今回私がいちばん打たれたのは、お餅のエピソード。
北一には誰にも知られていない相棒がいる。同い年ぐらいで、肩に烏天狗のような彫りもののある喜多次。もうひとりの「きたさん」である。
この子は行き倒れていたところをおんぼろ湯屋の老夫婦に助けられ、そのまま釜焚きとして働いている。煤や土埃にまみれた真っ黒な顔。ぼうぼうの髪。しかし、彼がほんとうは人形みたいにきれいな顔をしているのを北一は知っている。あと、喜多次はおそろしく無口である。
しかし本書では、北一がまだあたたかい豆餅を差し入れしたとき、「丸い豆餅、初めて見た」と言葉が発された。そのあとふたりは餅のかたちについて話をし、謎めいた相棒は、自分の故郷の豆餅は、四角いのを斜めに切って、三角にする、正月の雑煮の餅も豆餅だ、と続けた。
なぜ行き倒れていたのか、彫りものはなにを意味するのか。「一族」「系図」「家紋」という言葉をこともなげに使うがどういう生まれなのか。痩せこけていながらなぜ腕っぷしが強いのか(剛の者というより、彼は人間の急所を知っている)、なにも語らない喜多治が、自分の家のお餅のことを語っている・・・!
どんな只者でない人物にも生活があり、生きてきた思い出がある。それをしっかり描くのが宮部作品の魅力。第三弾に、大いに期待する。
代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ
間 室 道 子
【プロフィール】
雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする「元祖カリスマ書店員」。雑誌『婦人画報』、電子雑誌「旅色 TABIIRO」、朝日新聞デジタル「ほんやのほん」などに連載を持つ。書評家としても活動中で、文庫解説に『タイニーストーリーズ』(山田詠美/文春文庫)、『母性』(湊かなえ/新潮文庫)、『蛇行する月』(桜木紫乃/双葉文庫)、『スタフ staph』(道尾秀介/文春文庫)などがある。