【第129回】間室道子の本棚 『スナック キズツキ』益田ミリ/マガジンハウス
「元祖カリスマ書店員」として知られ、雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする、代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ・間室道子。
本連載では、当店きっての人気コンシェルジュである彼女の、頭の中にある"本棚"を覗きます。
本人のコメントと共にお楽しみください。
* * * * * * * *
『スナック キズツキ』
益田ミリ/マガジンハウス
※画像をクリックすると購入ページへ遷移します。
※画像をクリックすると購入ページへ遷移します。
* * * * * * * *
「死ぬこと以外、かすり傷」という言葉があり、わりとイケイケの男の人が使うようである。 たしかに、命を無くすような事態に比べれば、愛車に傷がつこうが美女にフラれようが仮想通貨が値下がりしようがたいしたことじゃない。でも「小さなかすり傷がたいへんなのよ~」と訴えたい人は多いと思う。
西洋に「ラクダの背の最後の一本のわら」というフレーズがある。背中にわらを一本置く。ラクダはなにも感じないだろう。二本、三本、四本と続け、百本。さらに百一本、百二本、やがて千本、一万本。さすがに異変に気付いているだろうが、重い荷物を背に砂漠を何日も歩く動物だ。まだまだいける。で、一万一本から再開し、二万に到達し、五万を超え、十万、二十万・・・。そうして許容量を超える一本を乗せたとき、ラクダの背骨がへし折れる、という教訓めいた言葉なのだ。
「最後に乗せたのが鉄のかたまりでした」ではないのがミソ。ラストも一本のわら。でも限界に達するのである。胸の内だって同じ。ある日とつぜんグーで殴られるのも嫌だけど、毎日小さなダメージを負う暮らしは心を折る。
今回紹介するのは漫画で、舞台は最後の一本を乗せられた人だけがたどりつく、路地裏のスナック。女性がひとりで経営しているようだ。
世の中の「スナックもの」は、映画にしろ小説にしろ、酸いも甘いもかみ分けたママさんが客の話を聞いてあげて、彼女からのなにげない言葉に皆はっとしたりぐっときたりして帰る、というパターンが大半。本書では、お店の女性と客が共同作業めいたことをするのが斬新である。話す人・聞く人、癒す人・癒される人という一方通行ではなく、異常な行動(?)でからみあうのである!
心の痛みを取る方法って、目には目を、歯には歯をの復讐や、「金を落として同じ金額を拾う」といった補填だけじゃないのだ。「人生の成功?それじゃあ人生が商売みたいじゃねぇか~」という気持ちがエアギターで吹き飛んだり、「笑っちゃうくらい頼りないわたしの人生」がしりとりでひとまずラクになったりする。思わぬ方向からの素っ頓狂。かすり傷だらけの私たちを救うのは、これだ!
そして、自分も最後のわら一本になる。「スナック キズツキ」は実は「スナック キズツケ」でもあることが、読み進むうちわかってくる。
とんでもない理不尽や悪意ではない。「鯖の竜田揚げ、欠けてる身が多い気がしたんでもっときれいなのに入れ代えてもらっていいですか」という一言や、「電車で隣の席のサラリーマンが大股びらきをしていた」。するにしろされるにしろ、こんなあるあるが、誰かの最後のわらになる。バーべキューで幹事さんが発した「シャトーマルゴー」という言葉を俺は知らなかった、と傷つく人もいる。そんなの防ぎようがないよ、と思うでしょう。それでいいんです。
キズツキとキズツケは「被害者と悪い奴」という対立構造ではなく、地続き。一話目に登場する「ナカタさん」と二話目の「アダチさん」は、「おや、あの!」という関係にあるのだが、どちらもスナックの女性に「いらっしゃい」のすぐあと、ある言葉をかけられて同じ顔をする。私はここがいちばん好きだ。敵じゃない。東京の片隅でがんばる人は似てる。いつか二人が出会ったら、友だちになれるんじゃないかと思う。
背骨の折れたラクダはもう歩けないけど、私たちは朝が来たら踏み出す。傷つき、傷つけながら、人生は続く。
西洋に「ラクダの背の最後の一本のわら」というフレーズがある。背中にわらを一本置く。ラクダはなにも感じないだろう。二本、三本、四本と続け、百本。さらに百一本、百二本、やがて千本、一万本。さすがに異変に気付いているだろうが、重い荷物を背に砂漠を何日も歩く動物だ。まだまだいける。で、一万一本から再開し、二万に到達し、五万を超え、十万、二十万・・・。そうして許容量を超える一本を乗せたとき、ラクダの背骨がへし折れる、という教訓めいた言葉なのだ。
「最後に乗せたのが鉄のかたまりでした」ではないのがミソ。ラストも一本のわら。でも限界に達するのである。胸の内だって同じ。ある日とつぜんグーで殴られるのも嫌だけど、毎日小さなダメージを負う暮らしは心を折る。
今回紹介するのは漫画で、舞台は最後の一本を乗せられた人だけがたどりつく、路地裏のスナック。女性がひとりで経営しているようだ。
世の中の「スナックもの」は、映画にしろ小説にしろ、酸いも甘いもかみ分けたママさんが客の話を聞いてあげて、彼女からのなにげない言葉に皆はっとしたりぐっときたりして帰る、というパターンが大半。本書では、お店の女性と客が共同作業めいたことをするのが斬新である。話す人・聞く人、癒す人・癒される人という一方通行ではなく、異常な行動(?)でからみあうのである!
心の痛みを取る方法って、目には目を、歯には歯をの復讐や、「金を落として同じ金額を拾う」といった補填だけじゃないのだ。「人生の成功?それじゃあ人生が商売みたいじゃねぇか~」という気持ちがエアギターで吹き飛んだり、「笑っちゃうくらい頼りないわたしの人生」がしりとりでひとまずラクになったりする。思わぬ方向からの素っ頓狂。かすり傷だらけの私たちを救うのは、これだ!
そして、自分も最後のわら一本になる。「スナック キズツキ」は実は「スナック キズツケ」でもあることが、読み進むうちわかってくる。
とんでもない理不尽や悪意ではない。「鯖の竜田揚げ、欠けてる身が多い気がしたんでもっときれいなのに入れ代えてもらっていいですか」という一言や、「電車で隣の席のサラリーマンが大股びらきをしていた」。するにしろされるにしろ、こんなあるあるが、誰かの最後のわらになる。バーべキューで幹事さんが発した「シャトーマルゴー」という言葉を俺は知らなかった、と傷つく人もいる。そんなの防ぎようがないよ、と思うでしょう。それでいいんです。
キズツキとキズツケは「被害者と悪い奴」という対立構造ではなく、地続き。一話目に登場する「ナカタさん」と二話目の「アダチさん」は、「おや、あの!」という関係にあるのだが、どちらもスナックの女性に「いらっしゃい」のすぐあと、ある言葉をかけられて同じ顔をする。私はここがいちばん好きだ。敵じゃない。東京の片隅でがんばる人は似てる。いつか二人が出会ったら、友だちになれるんじゃないかと思う。
背骨の折れたラクダはもう歩けないけど、私たちは朝が来たら踏み出す。傷つき、傷つけながら、人生は続く。