【第102回】間室道子の本棚 『奇妙な星のおかしな街で』 吉田篤弘/春陽堂
「元祖カリスマ書店員」として知られ、雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする、代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ・間室道子。
本連載では、当店きっての人気コンシェルジュである彼女の、頭の中にある"本棚"を覗きます。
本人のコメントと共にお楽しみください。
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『奇妙な星のおかしな街で』
吉田篤弘/春陽堂
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まず表明したいのは、「北海道新聞愛」だ。
出身ではないし、行ったのも一回。そんな人間がなぜこの新聞を愛しているかというと、その一度の旅=中学の修学旅行に関係がある。こましゃくれていた私は、ありきたりではない、北海道でしか買えないものってなんだろう、と真剣に考えていた。そして全日程の終わりの日、青函連絡船待ちの間にキオスクに走った。
「北海道で、北海道新聞を買う」この結論は「名探偵、核心を突く」みたいで満足だったが家族にはウケなかった。木彫りの巨大な熊とか木刀とか買ってこられても困ったと思うけど、北の観光どころから帰ってきた娘が新聞紙を差し出したのである。札幌やオホーツク海で大事件などあれば違ったかもしれないが、北海道新聞は「ふーん」とか「へー」とか言われて広げられたあと・・・。どうなったんだろう?
でも、この北の地方紙は今も特別。紙名を聞くと、知的なものへのあこがれや、人とは違うことをしたいという考えで頭をいっぱいにしていたあの頃と現在が地続きになる。
長々とすみません。というわけで吉田篤弘さんのこのエッセイが「北海道新聞連載」と知って、近しい気持ちがわいた。そして、おお、奇妙でおかしな地続きが書かれている、と思った。
たとえば東京という街では、行ったことのない国の雑賀や食材が容易に買える。スーパー・マーケットで、日本と世界は陸続きになる。しかしフランス産の水を毎日飲んだからってフランス人にはならない。異国は遠くて近く、近くて遠い。
一方江戸の人は、家の中の管から水が出ることにまず驚くだろう、と著者は重ねる。そしてこんなに便利になったのにそれを口にせず、よその国の水を買って飲んでいる事態にいよいよ仰天するに違いない、と続ける。令和は江戸からはるか離れた。しかしすっかり切り離されたわけではない。
さらにエッセイでは、異星人がわれわれを見たらどうなるか、そして牛乳(北海道産)に話が及ぶ。銀河の先の彼らの星と地球はとてつもなく遠い。だけど、と私は読みながら思う。われわれは友好ものにしろ侵略ものにしろ、たくさんの宇宙映画や小説を作り続けてきた。心で彼らと地続きなんじゃない?
ほかにも、素顔と修正されまくった写真、常連だったのに無くなっていたお店、木曜日の自分のために月曜日の自分が買ったものなど、つながってる?つながってない?が愉快に登場。
あとがきには、最終回の原稿執筆から数か月後のコロナの時代がでてくるけど、本にすごくはげまされた。
四月以降、私はよくパラレルワールドを夢想する。そこでの自分は春のハワイを満喫し、スターは生きていて、東京ではオリンピックが開かれどこも大騒ぎだ。現実は、旅行はキャンセルになり、あの人が、という方が亡くなり、テレビではメダルの個数のかわりに別なものがカウントされ、外出自粛が叫ばれている。
でも、「向こうはいいな、こっちは絶望的だよ」ではないのだ。「騒がしく、目にまぶしく、暑苦しいあちら」に思いを馳せるとき、「静かで、ほの暗く、ひんやりしているこちら」で、今見るべきこと、考えるべきものはたくさんある。
来年の街、未来の星を、今日と地続きにできますように。
出身ではないし、行ったのも一回。そんな人間がなぜこの新聞を愛しているかというと、その一度の旅=中学の修学旅行に関係がある。こましゃくれていた私は、ありきたりではない、北海道でしか買えないものってなんだろう、と真剣に考えていた。そして全日程の終わりの日、青函連絡船待ちの間にキオスクに走った。
「北海道で、北海道新聞を買う」この結論は「名探偵、核心を突く」みたいで満足だったが家族にはウケなかった。木彫りの巨大な熊とか木刀とか買ってこられても困ったと思うけど、北の観光どころから帰ってきた娘が新聞紙を差し出したのである。札幌やオホーツク海で大事件などあれば違ったかもしれないが、北海道新聞は「ふーん」とか「へー」とか言われて広げられたあと・・・。どうなったんだろう?
でも、この北の地方紙は今も特別。紙名を聞くと、知的なものへのあこがれや、人とは違うことをしたいという考えで頭をいっぱいにしていたあの頃と現在が地続きになる。
長々とすみません。というわけで吉田篤弘さんのこのエッセイが「北海道新聞連載」と知って、近しい気持ちがわいた。そして、おお、奇妙でおかしな地続きが書かれている、と思った。
たとえば東京という街では、行ったことのない国の雑賀や食材が容易に買える。スーパー・マーケットで、日本と世界は陸続きになる。しかしフランス産の水を毎日飲んだからってフランス人にはならない。異国は遠くて近く、近くて遠い。
一方江戸の人は、家の中の管から水が出ることにまず驚くだろう、と著者は重ねる。そしてこんなに便利になったのにそれを口にせず、よその国の水を買って飲んでいる事態にいよいよ仰天するに違いない、と続ける。令和は江戸からはるか離れた。しかしすっかり切り離されたわけではない。
さらにエッセイでは、異星人がわれわれを見たらどうなるか、そして牛乳(北海道産)に話が及ぶ。銀河の先の彼らの星と地球はとてつもなく遠い。だけど、と私は読みながら思う。われわれは友好ものにしろ侵略ものにしろ、たくさんの宇宙映画や小説を作り続けてきた。心で彼らと地続きなんじゃない?
ほかにも、素顔と修正されまくった写真、常連だったのに無くなっていたお店、木曜日の自分のために月曜日の自分が買ったものなど、つながってる?つながってない?が愉快に登場。
あとがきには、最終回の原稿執筆から数か月後のコロナの時代がでてくるけど、本にすごくはげまされた。
四月以降、私はよくパラレルワールドを夢想する。そこでの自分は春のハワイを満喫し、スターは生きていて、東京ではオリンピックが開かれどこも大騒ぎだ。現実は、旅行はキャンセルになり、あの人が、という方が亡くなり、テレビではメダルの個数のかわりに別なものがカウントされ、外出自粛が叫ばれている。
でも、「向こうはいいな、こっちは絶望的だよ」ではないのだ。「騒がしく、目にまぶしく、暑苦しいあちら」に思いを馳せるとき、「静かで、ほの暗く、ひんやりしているこちら」で、今見るべきこと、考えるべきものはたくさんある。
来年の街、未来の星を、今日と地続きにできますように。