【第75回】間室道子の本棚 『ショパンゾンビ・コンテスタント』 町屋良平/新潮社
「元祖カリスマ書店員」として知られ、雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする、代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ・間室道子。
本連載では、当店きっての人気コンシェルジュである彼女の、頭の中にある"本棚"を覗きます。
本人のコメントと共にお楽しみください。
* * * * * * * *
『ショパンゾンビ・コンテスタント』
町屋良平/新潮社
※画像をクリックすると購入ページへ遷移します。
※画像をクリックすると購入ページへ遷移します。
* * * * * * * *
自分がこんなに好きになるって思ってなかったよ、という作家って、いる。
私にとっては町屋良平さんで、踊る高校生からボクシング小説まで、何を読んでも面白い。彼の何がそんなに気に入ってるんだろう、と考え、今の若者たちの気分を書いてくれてるからだ、と気づいた。
「気分とは、お気軽でお手軽ね」と思うかもしれないが、ちがう!たいていの作家は青春小説のために若い人物をつくりあげる。登場人物たちは会話し、行動を共にする。だけど彼らの間に漂うもの、この人たち以外にもきっとある世代のムードを書ける作家はあまりいない。つかみどころにないものをつかまえて言葉にする町屋さんは毎回すごい。
タイトルの意味は、生きながら音楽に葬られている人たちと言うか、演奏者を志す者にとって、「楽譜にうつりこんだ死者の言葉は絶対だ。ねじまげるととんでもない呪いが跳ね返ってくる」という思いがある。ショパンとかベートーベンとかの魂を自分の肉体に宿そうと一日十二時間練習し、現世的良識とか価値観とかを放り投げ、心身ともにゾンビのようになりながら、そこに生きがいを見出そうとするのが音楽大学の学生たちだ。
でも主人公の「ぼく」は死に物狂いで練習して入った音大を半年で退学する。しかも周囲に圧倒されたとか自分に見切りをつけたとかではなく、人生を懸けていたピアノを「なんとなく」やめた。
親は大激怒。そりゃそうだ。主人公の家は金持ちではない。そんな中でのいい先生、いい音楽鑑賞の機会、いいピアノ。どんだけお金かけたと思ってんだ、である。
だけど、飽きたとか挫折したとかではなく、これだ!と思っていたものをなんとなくやめる若者は、今の時代めずらしくないんだと思う。カリスマ的人気の男性シンガーにもいたはず。町屋さんは「ぼく」の心情を、「絶望する才能すらなければ、ぼくら途方にくれるだけだ」と書いている。この途方にくれっぷりが読みどころ。
物語をひっぱるもう一人として、主人公が音大時代に作れた唯一の友だち・源元が出てくる。彼には才能がある。しかも「コンテストの一位、二位の常連さん」という感じではなく、なかなか決勝まで残れず、二次予選落ちなのに、審査員特別賞をもらっちゃう、というタイプ。
アジア圏のコンテスタントたちが日本に集まる「ショパン・ピアノコンクール」に挑戦する源元と、キイボードをピアノからパソコンに変えて小説を書き始めた「ぼく」、そして源元の彼女である潮里。この三角関係が今っぽくて、笑ったり感心したりした。
あとイマドキの若者たちは、「男女のヌメリがすきじゃない」とか、カップルアカウントで自分たちの記念日とか事件とか愛の誓いとかを文章やビジュアルで投稿し、お互いの想いをそろえていく行為って、どこか「昭和的な愛の手つづき」に似てる、という考え、深夜のバイト明け、パソコンのひかりと朝のひかりはまじりあわない、というまなざし。このへんも町屋さんの本領発揮。
いちばんのオドロキは、男の子たちがよく泣くこと。しかも「男泣き」ではない。
ひと昔前、男は人前で泣くもんじゃないとされ、涙腺の崩壊はがまんにがまんを重ね、こらえきれずに、であった。
本書の男の子たちのは、そういう汗くさい涙ではない。なんと彼らは女の子を思って泣くのである。好きなのにそばにいられないとか、嫉妬のつらさで目がウルウルとか、女の子に「きも」と言われ、その彼女の表情が、発言の内容をまるで反映しないやさしさでいっぱいとか、愛のために彼らは涙を流す。
「泣くのをためらわない」とも違う。「夏に汗が出るのをためらわない」とか「切り傷をこしらえた時血を流すのをためらわない」とか言わないように、今涙は、恋する男子のごく自然な生理現象になっているのだ。すごーい。
時代の空気を書かせたら今いちばんうまい作家。「令和っぽい文学を教えて」と言われたら、まっさきに町屋作品を挙げる!