【第70回】間室道子の本棚 『私の家』 青山七恵/集英社
「元祖カリスマ書店員」として知られ、雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする、代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ・間室道子。
本連載では、当店きっての人気コンシェルジュである彼女の、頭の中にある"本棚"を覗きます。
本人のコメントと共にお楽しみください。
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『私の家』
青山七恵/集英社
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私の考えでは、男性作家ってあまり「新しい暮らしかた」を書かない。家がテーマの小説で男性が描くのは「妻子がいる」「妻はいるが子はいない」「配偶者に先立たれた」などで、家の中の人物のありかたに変化がない。
「母娘、友達、会社の先輩後輩、という関係を持つ女性四人がひとつの家に住んでいる」「離婚した夫婦が同じシェアハウスにいる」「主人公のアラフォー独身女性、六十代の大家さん、近所に住む大家さんの二十代の姪とのぎくしゃくしながらも続く交流」など、現代の住まいの物語は女性作家がお得意のようだ。そこに傑作がもうひとつ。青山七恵さんの本書である。
家と人のさまざまなかたちが描かれる連作で、たとえば登場人物の一人である梓は二十七歳にして東京での彼氏との同棲生活がダメになり、北関東の実家に戻ってきた。
このテの小説の実家の母というものは、「歓迎」とはいかなくても許容的諦観的に娘を住まわせてくれるもの。しかし本書の母・祥子は「敵意」とまではいかないが、梓に対するいらだちを収めておけない。この母親の姿に「あるある!」な女性読者は多いと思う。娘が「帰省している客」から「長期でここにいる存在」になった時の母の怒りはなんなのだろう?「世話をするのが面倒」以外のものがありそう。
一方梓の姉の灯里は川崎にあるマンションで幼い娘と夫と暮らしており、梓が訪ねてきた時のテーブルの座り位置に違和感を案じる。さらに祥子の夫で灯里と梓の父である滋彦は、町の反対側にあるもうすぐ解体予定の住宅に異常に心を奪われ、その家の始末のために東京からやってくる女性と知り合い、送り迎えや片づけの手伝いをするようになる。あろうことか、彼女が来ない日にもこっそりそこで過ごしたりしている。
ほかにもいろんな人物が出て来るが、家族小説で「失う」と言えば「親やきょうだいの死去」「ホームレスになった」などだけど、本書に登場するすべての人々は、家があるのに寄る辺なさを感じている。読み進むうち、「父親は自分の陣地に小さく新聞を広げながら、ビールで晩酌をしている」という文章に出くわし、これだ!と思った。
転がり込んできた娘への母のトゲトゲしさ、自分の家のテーブルにいる妹を見た時の姉の変な感じ、見知らぬ家でなにをするでもなく過ごす父親の満足。これは「陣地が侵された」「いつもと違う布陣だ」「短期だけど、なつかしくも新しい自陣を見つけた」という気持ちからくるのではないか。
今の時代の「私の家」感は、家族や自宅かどうかではない。近所の店や旅先、お尻がすっぽり入る大きな木の窪みに、陣地の安らぎを見い出す者もいる。そういう「心がいつでもここに帰ってこれる拠り所」のような感覚を、この本じたいが持っているのがたいそう魅力的。